正しさと同時に生まれるのは

日々

これが正解だ

正しいとか正解はそれ単体では生まれることも存在することもできないよね。正しいことが生まれた瞬間に間違ったこと、ダメなことが同時に生まれる。このことにより注意を払わないと、同時に生まれた悪の部分、弊害とも呼ぶところは残念ながら無視するしかない。多くの場合の正しさを求めれば、少しの悪には目をつぶることになる。正しさを求めるとしても、もっといい方法がないかということを常に探していかないと、小さいと思っていた弊害がより拡大したときに手の施しようがなくなってしまうね。

社会問題は多数決

多少の犠牲は止むを得ないとする社会。そのほとんどが無視できない少数派をどうしても生んでしまう。最大多数の最大幸福なんて功利主義と呼ばれる思想で運営されている。そろそろ少数派とはいえ、個々の問題にも目をむけて考える必要がある時期かもしれないね。科学は進歩して人類は豊かな生活を手に入れたのは間違いない。けれど、その弊害も顕在化してきたわけで、物事は常に移り変わるとすれば解決方法や正しさも同じく移り変わる。その時々に考え直すというのが本来の人類の叡智の営みとするならば、常に正解は仮置きの対処法に過ぎないということを忘れてはいけないね。

科学が犠牲にしてきたもの

そのためには、小さなことにも目を向ける余裕が大切。いつもキリキリしている状態では、捉えることは難しくなるからね。では、余裕はどうやって生まれるか。それは仮置きした正解を一旦白紙に戻すという作業を繰り返すこと。なんでも固定したいと思う元は、その方がらくちんだからね。それが行き過ぎると仮置きした正しさをもって争い事を起こしてしまう。その後、反省をするのだけれども、そうなる前に対処するのが被害が少なくて済むね。多数決で決めるということは、人類の偉大な発明であるけれど、そこから外れた部分には慎重に観察し続けることも大切。それが報道でありジャーナリズムと呼ばれる重要な役割だったはずだよね。

正しさの向こう側

正しいと思った瞬間から間違いが生まれる。思えば思うほど、信じれば信じるほど間違いが強固になるから、あんまりこれが正解って大きな声で言わない方がいいかもね。ずっと悩んでるんだと打ち明けた方が、そこから学ぶことは大きいのかもしれない。正しさや間違いを生み出しているのは、問題事の方ではなくて、ああ、また同じ間違いだと見ている自分の心が引き起こしているんだよ。いつもいつも同じ過ちを繰り返す現実は、実は見ている側から生まれているんだから。そのメッセージだけを受け取ればいいと思うよ。