楽しい人生
自発的
あなたがこうだと思ったらそうなる。それほどまでに単純な人生をいつもは、辛くて苦しいものだと思っている。だからあなたの人生はいつも重苦しい雰囲気をまとっているわけだ。よく考えてみればそのときに幸せを感じる瞬間は、あなたが自らしたいことをできているときであり、それは全く持ってなにかと比べたり、他の誰かがどうだとか、そういう視点が完全になくなっている。無我夢中になっているときは、もはやあなたという幻も消えてしまっているね。でも不幸を感じているとき、あなたはあなたがどうにもこうにも報われないと感じているわけであり、あなたばかりが不幸を背負わされていることを嘆き悲しんでいる。要するにあなたが強くそこにあるときは、あなたの人生は辛く悲しいものになりがちであり、あなたがどこかに消えてなくなってしまっているときはなんとも思っていないか、それどころか幸せを噛み締めているときなんだ。
楽しむ
それ故に、人生を楽しむために必要なことは、誰かに与えられることを待っていては叶わないね。そうじゃなくて、自ら楽しもうとして行動しているときにだけ感じられるひとときである。もちろん、そうやっていてもどうにもこうにもあなたが思っていたとおりにはいかないだろう。それでもあなたはそれをやろうとした瞬間に、あなたはあなたを超えて、そうするための条件を注意深く観察しているね。それが一つの答えでもある。あなたがあなたをどこからか見ていて、それを他の誰かと比べてしまうと足りないことばかりが見つかってしまう。一方で、やりたいことのためにあなたが同じ場所からあなたを俯瞰しているとき、誰かと比べるよりも何をすればそれを達成できるかということだけに注目している。同じ足りないことでも、それらの意味合いが全く違っているわけだ。
理論と実践
すなわち、理屈ばかりを考えて何も行動しないままだと暗澹たる気持ちになりがちだけれども、それを埋めていこうと能動的に行動すれば、少しでもそれに近づくことができると喜びと幸せを感じられるわけだ。夢は寝ていても見られるけれども、志は行動しないと見つからない。同じような願望から想起されるやりたいことであっても夢ばかりを見ていては、かえって不幸になるのはそのせいだね。知識と知恵も同じように、情報だけをかき集めたところで、それに行動が伴わないものであれば、同じく気分が落ち込むだけとなる。そうではなく、それによって手を動かせば知恵となってまさに身につくわけだ。その身についたスキルでさらに何かを生み出す可能性を感じたとき、あなたは至高の喜びに包まれるわけだ。そのために練習を何度も繰り返すこともあるだろうけれども、その練習が単なる苦行となるのか、楽しみになるのかの分かれ目はそこにあるわけだね。