我慢比べ

日々

幸せは歩いてこない

今日がいい日かどうかは、待っているだけではわからない。幸せもあなたがそう思ったらそうだし、そうでないと思ったらそうなる。絶対的な価値や基準がそこにあって、何かをすれば獲得できる類のものではない。だからあなたがそれを生み出し、決めつけるだけのことだ。そう、それは独りよがりでもいいし、独善的だと揶揄されてもいい。それは他人の価値基準であって、あなたの幸せとは全く関係ないのだからね。例えばお金さえもっとあれば何でも手に入るから、やっぱり幸せは大金持ちのものだと思いこんでいる。けれども、すべてがあると幸せかどうかは、そうなってみないとわからない。多くの場合、そう思っていろんな他のものを犠牲にまでして、少しだけそこに近づいたとしても何故か幸せが増えたりしないのも、そういうからくりのせいだね。

夢とお金

何かをするためには、手始めに必要なものはお金だ。潤沢にお金さえあれば、あなたの夢はことごとく叶わないまでも始めることができる。そう思って、お金を稼ぐわけだ。でも大抵の場合はあなたのやりたいことを叶えるほどの金額には到底達しない。だから、やっぱり現実社会は厳しいものだと思い込み、ついには夢を語るのを恐れてしまうわけだね。その一方で、あなたは日々の暮らしはなんとかやりくりできるぐらいはできている。今月はかつかつで余裕はないけれども、たまに好きなラーメンを奮発して食べることができたりする。そのときあなたは小さな幸せを感じている。しかしそれを夢がかなったとは不思議なことに思うことはない。夢は日々の食事の中で、少しだけ贅沢ができた喜びとは違う、もっと壮大なものでなければならないと思っているからだね。

喜びの大きさ

いつしか、夢や希望が叶うという大きな喜びは、社会に貢献したり、社会を変革したりできるぐらいの規模でない語るに落ちると思っているね。もちろんそれを目標にして生きることは素晴らしい。でも、それを追い求めるがために日々のそういった小さな充足をないがしろにしてしまうのは本末転倒だ。結局のところ大きな夢を叶えるには、大きな犠牲を伴うわけで、プラスマイナスすればゼロどころかマイナスにしかならない。それを夢だと勘違いしてしまったのはいつの日からだろうね。そうなると、あなたより楽しそうにしている他者を見下すようになってしまうわけだ。努力の量なんて比較もできないようなことを、まるで苦しみの代償が喜びだと言い張るようになる。もっと言えばこんなにあなたはいろんなことを我慢して苦しんでいるというのに、らくらくと笑って生きているような人に対して恨みを抱くようにまでなる。そんな価値観を自ら構築した社会で、果たしてあなたは大きな夢や幸せを手にすることができるだろうか。