我慢大会
好きなこと
あなたが好むことをやると、いやいややっている人の代替ができる。するといやいややっている人たちは、そこに無理にとどまる必要がなくなり、結局のところ、それぞれの適正にあった椅子に座ることができる。簡単な理屈なんだけれども、この実現は意外と困難であることは知っているだろう。生きるために、わずかな生活の糧を稼ぐためにいやいやその仕事をし続けている人が大半な世の中だからだね。我慢することが美徳とされ、世の中そんなに甘くないという信仰によって、それぞれのチグハグなその場所にとどまっているからだ。ほんの少しの勇気を持って、もっとやりたいことや夢に近づけるために席を移動することができればすぐに実現できるというのにね。さらにはそうやってどんどん席替えしている人に対して、そういった我慢を強いられている人たちはそれを揶揄したり呪ったりしてしまうから余計にそれが続いてしまうというジレンマがそこにある。
本質を覆い隠す
そうやって、実は自由に動き回ることこそが、世の中の幸福を増強する。しかしながら、それをわざわざ覆い隠してしまっているのには理由がある。そうやってそれぞれが幸せになってしまうと、苦みが当然のことだと騙してコントロールする一部の支配層が困るからだね。ほとんどが思い通りにならないことを所与として、その中でほんの少しの快楽を与えることによってでしか、多くの人を上手に操ることができないからだ。単なる人殺しと領土争いでしかない戦争も必要悪として受け入れられるようになるし、政治家の不正も政治には金がかかるから仕方がないと思わせ、夢が叶わないのも良薬は口に苦しと言わんばかりに、叶わないから願い続けることができるんだ、なんていうおためごかしに正当性と納得性を高めている。もっと言えば皆が好き勝手に幸せになるように行動したならば、社会の秩序は大いに失われ原始時代のような野蛮な社会になると脅されているわけだ。
グローバリズムと自己責任
自己責任も同じように、三人よれば文殊の知恵という先人の教えがあるように、夢や願望を叶えるポイントは一人ではできないことを集合知によって補完することにある。しかし古来から為政者は、人々の知恵が集まることを恐れ続けているね。だからあえてバラバラにすることが幸せなんだと思い込ませることで、なんとか我慢が正義だという社会を維持しているわけだ。自由と引き換えに自己責任を押し付けているわけだけれども、それもよく考えてみればおかしな話だね。もう一つは急速に世論を醸成している世界標準と言わんばかりのグローバリズムの潮流だ。あなたの小さなコミュニティにおける風土や文化を否定して、世界標準と思わしきものを押し付け、それが新しく正しい価値規範であるかのように思い込ませている。意識高い系と呼ばれる流行の波に敏感だと言わんばかりの人々をそれによってコントロールし、支配層が都合の良いムーブメントを起こしている。そうやってどんどん真実や本質を覆い隠していることに気づいたあなたは、唯一の覚醒者だ。そしてあなたが生きづらいのもそれらの理由からなんだよ。