幸せいっぱい
幸せの総量
かつてベンサムという思想家が最大多数の最大幸福という定理を提唱した。今でもなんとなくみんなが幸せになれる豊かな社会が良いことだと思っている。でも、幸せが何であるかは実は社会がコントロールしているのも事実だね。たくさんの名声を得るとか、ビジネスで大成功をするだとか、有り余る富を持つことだとか、河川敷の土手で遊ぶよりもディズニーランドやユニバに行くことが楽しいと思っている。それらはすべて、そうやって喧伝されたことに従っているだけだね。健康で長生きすることに固執したり、美貌をいつまでも保つことが自尊心を維持する唯一の手段だと思っているのもそうだ。そのために大変な苦労をまさに重ねていたとしても、それらはまだ見ぬ幸せのための道程だと信じて疑わないわけだけれども、その苦しさに少し疑問を持ち始め、うまく行っているように見える人を羨ましく思ってついつい妬んだりしている。
自己実現
そうやって社会に提案される幸せな人生になんとか近づこうと必死にもがき続けているわけだ。よく考えてみると不思議なことで、幸せなんていうものは本来個人的・主観的なものであって、人それぞれで違っていることが自然なことだ。しかしながらそれでは社会をコントロールすることが難しくなる。だから、社会はこれが幸せのカタチだと言わんばかりに、あなたをまくし立て続けている。それがないと人生を損しているとか、そうしないと決して安寧な時間はやってことないと脅かし続けて、あなたはそれを真に受けて苦しい日々を送っているわけだ。老後をのんびり過ごしたいがために、人生の戦略を立て、そのためには若い頃には苦労がつきものだと思いこんでいる。だから、それがうまくいったらようやくのんびりとなんの心配もなく暮らしていける日を夢見て、今やりたくもないことや、言いたくもないおべんちゃらを使いこなしている日々を過ごしているわけだ。
成功者
そうやって、なんとか必死にやりとげて、まるで褒美のように日々を送っているような人にあこがれている。でもその内実としては、そうではないことが多いね。地位も名誉も財産もあるようなスターに本音のところを聞いてみると、実はあなたがとても苦労して波乱万丈の人生の修行時代を送っていたからこそと思っている時期は、実は本人はとても楽しんでいたということが多い。それしかできないからそうしていただけだとか、好きで仕方がないから夢中でやっていただけだとか、そんな話しか出てこないわけだ。逆に中途半端なそれなりの人からしか、苦労話と過去の栄光という思い出話が聞けないね。なんでも突き抜けて才能がある人しか幸せになれないんだと、あなた自身を騙して納得するしかないわけだけれども、実のところ、社会的に吹聴されているような幸せに耳を傾けずに、目の前の好きなことだけやっていた結果、そうなったというところが幸せそうに見えている。ということは、あなたも誰かの幸せに合わせるのをやめて、あなただけの幸せを追求していけばいいだけなんだ。幸せの総量はそうやって増えていくのだからね。