その願いはあなたのものじゃない

日々

押しつけられた価値観

世の中の価値観に誰もが知らず知らずのうちに染まってしまっているね。こうあるべき論ってのは歴史を振り返ればずいぶんと変わってきているんだけど、誰かに押しつけられたあるべき論に支配されすぎるととても窮屈な思いをすることになるよね。容姿端麗でおしゃれでセンスがあって、求められる能力も高いということが目指すべき存在として画一化されていることに、なんの疑問も持たないようになると、その狭い価値観にどうにかこうにか自分を合わせようと必死にもがいているわけ。そうすると自分がこんなに苦労しているのにもかかわらず、無頓着なのに楽しそうに笑っている人に対しては、なんだか攻撃したくなるんだよね。かっこよさ、かわいさ、人生の勝ち組なんかも最初からなぜか道筋は決まっていて、「天は二物を与えず」なんて言う言葉なんて霞んでしまうほどのあなたとは似ても似つかぬ存在を目の当たりにしたとき、嫉妬は最大になるんだね。なんで自分はそうならないのかと逆切れして、神様を呪ったりしている。神様にもランク付けをして、より自分の望みを叶えてくれる違う神様を探し始めたりしているね。

神様より偉いあなた

かわいくなりたいの。こういう格好をする子はかわいい。こういう仕草はかわいい。だから神様、少しぐらいそうなるように願いを叶えてよ、とあなたはいつも願っているね。それはもう、自分の力ではどうにもならないからあとはよろしくということだね。そりゃ、自分だって結構努力して頑張っているんだから、そろそろこの願いを叶えてくれてもいいんじゃない?っていうことかな。でもよく考えてみてよ。お願いするってことは、今の自分を全否定していることと同じなんだけどね。今の自分を1ミリも受け入れられないあなたに、あなたが望んでいるような多くの人を惹きつけるような魅力が生まれるのかな。なんてこと言ったりしたら、またすごく怒られそうだね。でも人生を豊かに楽しめる人になりたいというのが根っこの願いであれば、文句を言える状態の今に感謝の気持ちが先にあるはず。思っているほどかっこよくもなく、かわいくもない、なんの取り柄もないと思っているあなたが、こうしてここにいることを奇跡と呼ばずしてなんと言うのよ。

あなたらしさ

それでもなんだかんだ押し付けてくるってあなたは言う。そうだね。世の中はそう言うのかもね。けれど、それはあなたが完璧なあなたらしさを実現しているからこそ、見えるんだよ。容姿も性格も能力も資産も高い方が勝ち組だとか、社会人として親として子どもとして客として店員として社長として、なんてすべてに「らしく」ありなさいと。でもそれらは全部あなたじゃないから感じられるわけで、どこかにいる知らない人のことを言っているだけだよね。だって、あなたはあなたしかこの世にいないんだから、もうそれで完璧な「あなたらしさ」が備わっている証拠でもあるね。だから神様にお願いすることは何もないよね。強いて言えば、他人のことにも気を配る余裕のある自分がここにいることに「ありがとうございます」しかなくなると思うよ。