ありそうでない
そもそもなにもない
幸せを願ってやまないだろうけれども、身も蓋もない言い方をすればそんなものはどこにもない。幸せになりたいのならば、幸せとはどういうことかを具体的に説明できないとなれない。ところが、断片的に説明することはできるけれども、その実態をしっかりと掴み取ってはいないね。例えば、幸せになれますようにと願うとき、ある人はもう少しお金があればなんとかなるとか、もう少し恋人と仲良くできればなんとなかるとか、あるいはもう少しゆとりがあればなんとかなるとか、そんな部分的なイメージしかない。幸せとはなんぞやと説明せよと言われてたところで、漠然としたイメージであって、それを誰かに伝えることができるようでできない。それだけ幸せとは個人的なものであり観念でしかないわけだ。だから具体的に願ったら叶うと言われても、結局のところ毎日のご馳走だったり豪邸だったり預金残高の桁の多さだったりでしかない。そんなものが本当の幸せかと問われるとあなたは答えに窮するわけだ。
平等とか平和
具体的にみかんだとかりんごだとかそういう実態を示す言葉ではなく、例えば平等だとか平和だとかみんな仲良くとかそういう言葉は観念を示す言葉であり、実態は誰にもわからないわけだ。すなわち存在そのものが怪しいものを指す言葉であって、人それぞれの解釈によってその様が大きく違うものでしかない。だから平和を願ってやまないという一見皆が理解できそうな言葉であっても、争い事がないという意味にはならず、時には平和を勝ち取るために戦うこともそこに含まれていたりする。もちろんそれを万人に共通な概念として受けいれてはいるけれども、世界平和ということが一瞬たりとも成立しないことからもわかるように、各々の正義はそれぞれの文化や習慣、価値観によって大きく異なっているのが現状だね。愛とか平和とか、一見すると誰も否定できない言葉こそが実は大きな問題を孕んでいることに注意しなければならない。それはあなたが想像する状況とは大きく異なっていることがむしろ必然なんだからね。
不幸
幸せとか不幸とかも実態があるわけではなく、そういう状況を概念的に表す言葉でしかない。ある人にとってはそれが不幸だと共通認識が得られたとしても、置かれた状況や文化が違う世界ではそれほどでもなかったりする。毎日食べるものに困ることがないこの国で、不幸だと嘆いたとしても、そうではない国や世界で生きのびている人にとって共感できることは何一つないだろう。文化的に清潔で安全な暮らしを担保されている世界での不幸と、まさに明日の身もわからないサバイバル下の中でなんとか生きている人とのギャップは埋まることはない。そう、あなたが幸せとか不幸とかレッテルを貼っているそれらも、実は絶対的なものではなく、そもそも実態としてあるかどうかもわからないものなんだ。だから、あるかどうかも怪しいものに振り回されていること事態が幸せだとも言えるね。悩みはときにあなたを成長させるエッセンスではあるけれども、それも度が過ぎると毒にしかならないわけだから注意したほうがいいよ。