質とお金
数値
数値はそれだけが独り歩きする傾向にあるね。数が多いと偉いというのが資本主義の本質だ。安くてうまいというのは流行らなくて、今やどんどん値段という数値が上がっている。値段が高いから良いものだと思いこんでいるけれども、実はそれはマヤカシでもあるね。多くの人が持ち歩くことに憧れているブランド品のバッグや靴なんかもそうだ。高ければ高いほど羨望の眼差しを得ることができる。そのせいで、同じ仕事をしていても高い給料をもらって高収入な人のほうが価値があると感じているし、安物はやっぱりすぐにだめになるといった風だね。新品はより優れていて中古はそれよりも劣っているなんて思っているのも、価格がそうさせている。もちろんそれが逆転している品物もあるけれども、それはどうしてだろうか。おそらくは希少性とか欲しがる人がその価値を見出しているからだね。需要と供給でお値段は決まるとか言うけれども、果たして本質をそこに投影しているのかは怪しいわけだ。
量と質
たくさんあってありふれたものには値段がつきにくいと思っている。それも現代の市場理論からなんとなくそう思っている。昨日まで100円だったマスクがみるみるうちに300円になった経験をしただろう。欲しがる人が多くて、出回る数が少なければ高額になるということを体験している。ただモノの機能としては何ら変わりはない。今や円安とかで世界の貨幣価値が変動することで、あなたの100円がどんどん交換価値が少なくなってしまっている。それも貨幣市場の理屈からそうなると説明されているね。でもよく考えてみてほしい。同じラーメン一杯を食べたときの満足度は、値段とは関係なく同じことだ。ただ、今まで気軽に食べられたそれが、社会情勢によって困難になっていく。それが資本主義であり、あなたが信じる世界の実態だね。あなたは生きるために食べなければならないけれども、特にラーメンでなくても栄養摂取という部分では特に問題はない。すぐに代替品を見つけることができるだろう。
本物
そこで、そんな数値でごまかされないものが次々と見つけられることになるだろう。お値段の桁数が多いことが価値が高いという世界観がどんどん変化する時代になっていく。値段が高いというのもお金の量を指すとすれば、質とはどう再定義すればいいだろう。いやいや高級品だから質も高かったと思っているかもしれない。けれども結局のところそれらの対価として支払う貨幣が多ければやっぱりそれは量でしかない。すなわちお金持ちしか味わえないものとなる。それは市場理論が反映されているというマヤカシがそこにある。お金持ちがそれほどたくさんいないということは、それだけ需給バランスも少ないにもかかわらず、価格だけが高止まりしている不自然な状況だね。一方でそれを僅かな金持ちが購入してくれるからこそ、庶民にはその分お安く提供できていたとも言える。とにかく、これまでの質と量や数の論理から脱却しつつある世界に突入していくのならば、あなたから見えている質は何を意味するのだろうね。