善悪教

日々

悪いこと

あなたは善悪教という一大宗教なるものに洗脳されてしまっている。あなたにとっての善悪というのは究極的には二元論であり、良いこと悪いことをなんとなく決めている。いやいや、人に迷惑をかけてはいけないだろうと思っているし、社会で生きていくうえでいちばん大切な価値観だと信じて疑わない。外国で生活したり、違う文化に触れた経験があると、実は善悪には絶対値など存在しないことをなんとなく感じることがあるだろう。けれどもそれすら経験のない人はおそらくは親や学校の先生から学んだ善悪を踏襲することになる。例えばいじめは良くないからやめなさいということを幼子に注意するとき、あなたはどんな理論武装をして説得しているだろうか。おそらくはいじめは悪いことだと伝え、それは人の心を傷つける一番やってはいけないことだと言う。ところが、いじめは気持ちいいからやっているんだと反論されたとき、あなたはそんな悪いことばかりしていてはろくな人生を送ることができないと言うしかないだろう。はてさてそれは本当に悪人は地獄に落ちるかどうかなんて誰にもわからないにも関わらずにね。

洗脳と支配

良いことも同じぐらいのパワーを持っている。良いことを貫き通そうとすればするほどそうではない勢力と摩擦を生じ、最後には戦争が勃発したりする。自国を守るために戦って散っていった兵士をたたえることがもはや良いことなのか悪いことなのかがわからなくなるだろう。そもそも正義や良いことを守るがために誰かの命を奪う行為は良いのか悪いのかは大きく別れてしまう。それぐらい善悪とは実は相対的で主観的なものでしかないわけだ。それを強固に思えば不思議なことに良いことなのに、一方でひどい状態に陥ってしまう。なら風見鶏のように善悪の枠組みをその都度変えて、昨日言っていたことを、今日には全く真反対なことを言うような人のほうがマシだとも言える。そんな一貫性もないコロコロと変わる人をあなたはどう思うだろう。おそらくは良い人という分類には入らないだろう。でも、あなたが良い人だとか信頼できる仲間というくくりでは、すべてが良いことに繋がるとは限らないというジレンマがそこに生まれるわけだね。

不即不離

であるのならば、どんなに良いことでも、どんなに悪いことでも、近づきすぎないことや思い込みすぎないことがとても重要なんだ。正義の見方は悪を懲らしめなければ正義を維持できない。だから思いほのか悪人よりも常に懲らしめる場面がたくさん生じてしまう。本来は平和に誰も傷つけることもなく穏やかに暮らしたいと思っているにも関わらずだ。あなたの絶対化している善悪から開放されることができればそれが少しだけ可能になる。そう、あなたが見ていて不快なことだったり、許せないと思う状況からあなたは距離を置くことがそれに近づける最短の方法なんだ。あなたの善悪教の基準値から離れることをできるだけ見ない努力が、実はあなたが今にいることができる唯一の方法なんだからね。良かれと思ってやったことが仇になることを経験しながら、そうであるのならばそれ以上は手放すことが、まずはあなたの理想に近づくことができるわけだよ。