愛という名のもとに
支配
あなたのためを思って良かれと思って苦言を呈している。だから、それは無償の愛だと勘違いしているわけだ。親は誰よりも子どものことを思っているという。けれどもその正体は怪しくて、子育てに失敗している親だと思われたくないがためにそれを隠れ蓑にしている傾向が見られる。それは明らかに愛ではなく、親のエゴだからね。子どものためだとか言いながら実は自らのエゴを満たすための手段として使ってしまっている。しかも悪いことにそのことに親本人すら気がついていない。それは本当の愛を知らないまま生きてきたからだ。少し遡ってみれば、自らの親からもそうされてきたし、それが愛だと思いこんでいるからこそ同じ過ちを繰り返してしまっているわけだ。そうやって、知らず知らずのうちに我が子を支配する大人になってしまったわけだ。それが愛だと勘違いしているから、我が子だけではなく友人や仲間に対しても同じことをしてしまうのは無理もない。本当の愛を知らないままこれまで生きてきてしまったわけだからね。
マウントの構造
子どもたちも学校という社会において、自らが生き延びるために必死だ。だから先生に楯突いたり、大声を発したり、友人をいじめたりするわけだ。それをする理由はたった一つ、存在感を演出するための手段でしかない。どれだけ強いか、どれだけ価値があるか、どれだけすごいかを示すことで、自分の居場所をなんとか確保しているわけだ。いい子であることも、悪い子であることも、それらは善悪という二元論に支配された社会に対するアンチテーゼだ。いずれにせよそれだけではあなたがそこにいるという存在を確かめるには物足りない。そこで自らが特別な存在だと際立たせるためにやむを得ずいろんな行動を起こすことがある。それを大人は言うことを聞かない問題行動だと分類して、徹底的に矯正しようとするわけだけれども、それも大人が子ども支配する構造と何ら違いはないね。
一方的な愛
一方で本音のところを言うと、子どもたちは親が基本大好きだ。だからできる限り期待に応えようと必死だ。なにか問題が起きても、それは自らのせいだと責めたり、もっといい子でいようと頑張ったりする。それが限界まで追い詰められたとしたら、不幸な出来事が起こる理由もわかるだろう。うちに向かえば引きこもったり、心を病んだりする。外に向かえば、社会的に犯罪となるような行動となって現れるだろう。それは家庭内だけでもなく、学校でも同じことが起こるのは、学校の先生も子どもたちのためと言いながら、実はそうではない。自らの指導能力を問われることを恐れて、やっぱり子どもたちのためと言いながらも実のところ自らの保身でしかない。大人になって会社に入っても同じことが起こる。そしてそれはどの状況でも永遠に続いているわけだ。真実の愛はもはやどこにもなく、愛という名のもとでの誰かの保身でしかない。それらの道具にされてたまるかと皆が疑心暗鬼になって生きているのが現代社会の構造だね。それがわかればそこに巻き込まれないようにする方法をあなたは見つけることができるだろう。