誰がために鐘は鳴る

日々

競争社会

結局のところ自分だけが生き残ったもの勝ちだと思わせる競争社会で仕方なく生きている。だから、あなただけが得するような仕事や、あなただけが得をする方法を選択し続けざるを得ないと多くの人が思い込んでいる。幼い頃から成績で競争させられ、誰が優秀だとかそうでないとかの社会に放り込まれている。そこで叩き込まれるのは、いい暮らしや幸せは、そのレースに勝ち残ったものだけに与えられる褒美であって、サボったり怠けたりするものは地獄へ落ちると教えられるわけだ。そうしてあなたはあなただけの利益を求めて、誰かを蹴落としてしまうこともやむを得ないと思うようになる。そうして同じ価値観を共有させられて、まさに生き残りをかけた試練を乗り越えてきたわけだ。それでも夢にまで見た幸せな暮らしは、まだまだ道半ばなのはどうしてだろうね。

自己中

会社では我が社の利益をとにかく追求し、ライバル会社に負けじと必死になって戦っている。政治家は我が身が得するような政策しか考えず、まさに利権を欲しいままにすることが権力の象徴だと考えている。そうして経済競争に明け暮れるのも、我が子にも成績優秀になり、良い大学に進学し、社会的地位を得て、結果高収入となり、それが幸せの形だと信じているからだ。そんな人たちが増えたことで現代社会は今危機にひんしている。本来あなたがあなた自身を磨くのは、あなたが得するためではなく、誰かを助けるためであった。困っている人がいれば、その人の力になるように勉学に励んだり、仕事をしたりしていた。働くというのは傍を楽にするという言葉さえ、今では誰も言わなくなって、いかに楽して稼げるかが唯一のものさしとなってしまったね。偏差値という意味のない数値で学校の良し悪しが決まり、収入の多寡が幸せの基準となってしまったわけだ。

そこに幸せはない

いくらあなたが自身のためだけに頑張ったところで、そこに幸せなど存在しない。あなただけがこの世の富や地位を独占したとしても、今度はその管理に追われる羽目になるからだ。幸せはものの量ではないことをずいぶんと豊かになった暮らしが教えてくれている。便利で安全に過ごせることを幸せだとは感じることができないのもそのせいだね。明日がほぼ確実に迎えられることの幸せや、手を差し伸べてあげる余裕がある幸せなどどこ吹く風なのもそういう理由からだね。そういうものをいくら求めて、そうして得たとしてもあなたは幸せになれない。それは誰かの幸せのために願うことが本来の幸せであるからだ。そうして損得を超えた向こう側にあなたの求めている本当のものがある。楽しみはお金の量では決してないのは、おそらくは薄々気がついているかもしれない。けれども、競争社会はそれを負け犬と言って揶揄してくるのでそう感じたとしても気が抜けないわけだ。はてさて、負け犬とは何に負けたのだろうか。その意味をよく考えてみればすべてがわかるかもしれないね。