幸せという部品

日々

何でできている

あなたは部品を数えることができる。ここはこうで、それはそうでと、普段からものづくりをしているとしたら、その設計図から部品の役割や機能をよく理解しているだろう。同じように世界のすべての構成物を分類して把握することもできるわけだ。その分類において同じようにあなたは幸せのパーツをかき集めている。お金がたりないからお金をたくさん集めるとか、人手がたりないから仲間をたくさん持とうとか、癒やされる愛すべき家族がいるほうが頑張ることができるとか、そうやってパーツの寄せ集めが幸せになる必要条件だと考えているわけだ。それらが一通り揃ったならば、あなたはその目的が達成するだろうと思っている。ところが、そもそもそのバラバラのパーツを集めるにも苦労が絶えないし、仮にそれらがすべて揃ったところでまだ何かが足りないのか、忘れてしまっている部品があるのかわからないけれども、なんか思っていたのと違う状況に陥ってしまうことが多いね。

新製品

メディアでは、これがあれば暮らしが楽になるとか、これさえあればもうほかに何も必要がないとか、そんな謳い文句で喧伝している。そんな良いものがあるのならば、ぜひあなたの生活に取り入れたいと願うように仕向けてくるわけだけれども、それを手にするにはそれなりの対価が必要になる。だからあなたは仕事を頑張ってようやく手にするわけだ。ところが、確かにそうである一面が感じられるものの、何かが違うという小さな違和感をやがて持つようになる。しばらくすると、またメディアで、あなたがようやく手にしたものはもう古くて、今はこれが必要になると言われて愕然とするわけだ。なんだ、ようやく手にしたそれはもはや古ぼけたものでしかないとね。それが幸せになる必要条件という部品であるならば、今すぐムリをしてでも手にしないと効果が発揮されない。だとすれば、それらを自由にゲットできる状況を整えないと幸せなんて夢のまた夢だと思い込み、どうしたものかと悩み始めるわけだね。

不用品

そうやって、欲望を加速することで経済を動かし、結果お金の交換によって幸せを再分配する仕組みに巻き込まれていく。あなたはそういった要素を求め続けられる環境が幸せだと思い込むように仕向けられている。だから、疲れていてもムリしてでも生きる糧である打ち出の小槌のような貨幣を手にするために必死になっているわけだ。もうへとへとになってもそれをやめられないのは、生きるために、いつかの幸せのためだからだ。でもよく考えてみればおかしな話だね。あなたにはもはや不足しているものはそれほど残されていないぐらい豊かな社会で生きている。それが証拠に、幸せの部品を選ぶぐらいの余裕すらあるわけだからね。それに気づくと都合が悪いのが現代の資本主義社会なんだ。必要なものだけを手にすることで、豊かだと感じてしまうと人は売れる量が限られてしまうからだ。だからといって質素倹約に生きよといっているわけではないけれども、本来はそれ自体を楽しむ幸せがずっとそこにあるだけなんだ。幸せとは部品の寄せ集めではないのだからね。