問い2の答えはゥ
答えをください
小学生が問題集を解いて、しばらくして先生に言う言葉は「答えくださーい」だね。プリントとか黒板に問題があって、自分で解いてみた。さぁどうだろうかと思いつつ答え合わせだ。そう、学校の問題には必ず答えが「あらかじめ」用意されている。なんの違和感もない、ずっと見慣れた風景。大人になってもほとんどその形式は変わらない。何かを学ぶということは、まず「問題」があって、その「問題」に対するベストな答えをそこから導き出すことの練習だよね。この仕組みに注目して欲しい。クイズにしろ、なぞなぞにしろ、昇進や資格の試験にしろ、必ず問題や問いが先にある。しかもこれは自分からの問いや問題ではなく、誰かがつくったもの。そして、出題者が思う解答に沿って答え合わせをする。正解のマルの数を増やすことができればその学びはクリアとなり、レベルアップする。
誰かがつくった問いが先にあること
答えを探し当てる能力を磨けば、社会のたいていの問題はクリアできる。社会もそういう仕組みが多いから、学校でもそうなっているのか。それとも学校がそうだから社会もそうなっているのか。いずれにせよ、そうやって小さい頃から正しい答えを嗅ぎ取る感覚は研ぎ澄まされていくね。ここに注目よ。だから優秀な人もそうでない人も、「答えを探し求めること」を「頭で考える」と呼ぶようになる。答えが必ず用意されているという大前提で思考を始める癖がついちゃうね。日常でも、何か一つモノを買うにしても、コスパとして、使い勝手として、自分に似合うかどうかとして、など様々な視点での「問い」に対する「ベストな答え」を求めている。人生の岐路に立ったときも、正しい選択を求めている。正しい答えは必ずあって、それが複数だとダメ。答えはたくさんあると先生が言うと「なんだそれ」と納得できない自分がいるんじゃないかな。問い一つに正しい答えは一つ。それが誰にも文句がつけられない大正解。自然とそんな思考回路になってしまっている。この能力をもって「頭が良い」ことになっているのかな。
答えは一つという病
答えを探し当てる能力が長けていることは別に悪いことではない。でもそれに特化しすぎると「答え」がない問いに対してはやる気が出なくなる。やる気がでないということは関心が薄まる。やがて答えがない問題なんてこの世にそんなに無いと感じはじめる。おおげさかもしれないけれど、そうなるとどうか。未知のもの、よくわからないものには「関心がなくなる」ね。小学生の自由研究なんて一番面倒。テーマから自分で考えるなんてクソ。そうして自由研究のテーマを誰かの研究から選ぼうとするね。中には「自由研究は本当に必要なのか」なんてテーマを設定したりすると、必ず先生から「そういうのはダメ」と言われるね。テーマは自由じゃないのか。そうやって面倒だから、専門家や有名人や大先生が言っている通りをなぞるのが「答え」となってしまう。ほら、また答え見つけた俺天才、となるわけね。知っていること、得意なこと以外は特に関心もないので、「言われたとおり」にする。それが唯一の答えだ。
テストに出る
「問われて答える」ことに慣れると、問われないことは存在しないことになるね。だから自分で問いを作りなさいと言われると急に面倒に感じるようになる。え、それは先生の仕事でしょ?と思ったりする。そもそも問いを作ることすら関心もないので、ドリルや問題集を真似してちょっと変えるぐらいが関の山になる。こうして大人になるとどうなるかは、今目の当たりにしている状態だよね。自分の頭で問いをたてて仮説を導き、仮の答えを検証する、ということがとっても面倒になる。
だから相変わらず大人でさえ、未だに「先生、答えくださーい」となっている。そうした人々が今日も正解を探して右往左往している群れをつくる。
はい、ここテストに出るからしっかり覚えておくようにねー。