学び続ける

日々

進化

年寄りが最近の若者はと嘆くのはローマ時代からあるそうだ。常々にそれの繰り返しで人類は大いに進化してきたとも言えるね。もう理解の範疇を超えた若者を目の当たりにしたとき、すでにあなたからすれば分かり合えないのだろうけれども、まさにそれが進化の証拠でもある。思い起こせばあなたもかつては、当時の年寄りたちに新人類だとか言われていたことを思い出せばわかるね。歴史は繰り返すというのはまさにそういうことで、あなたは気がつけば新人類から老害と呼ばれる存在へと進化したわけだ。老いては子に従えというのも、その変化を受け入れなさいという教えであり、あなたが思う常識や知見は、常に塗り替えられているからこそ、あなたは今どきの若者を理解できないのである。だから、それが正常であり安心していいという証でもある。一ミリも理解できないことが、あなたにとっては嬉しいと感じるはずの瞬間なんだけれども、まぁ、そういう気持ちにはならないことが多いわけだね。

常識

あなたの常識は、いつのまにか古ぼけて気がつけば非常識になっている。それにも関わらずあなたは、いやいや古き良き時代があって、それがどんどん退化して誰がこんな世の中を望んでいるんだと憤慨している。ところがあなたは気がつけばそろそろそんな世から退場しなければならない年代になっている。にも関わらずまだまだいつまでも現役で世界の中心の座を譲るのを拒んでいるわけだ。この先あなたの理解不能な世界になろうとも、あなたはもはやそこにずっと居られるわけではない。その当たり前の状況を受け入れられないでいるから、言葉はどうかと思うけれども老害化とか呼ばれてしまうありさまだね。ところが、あなたがそれを受けれ入れて謙虚な姿勢になれば、あなたの知見を学ぼうとする若者があなたの周りに集まってくる。それはどういうことかと考えると、結局のところ過去に縛られて思考停止した老人には魅力がないわけで、すなわちこれからの世代からみても反面教師の価値でしかないということだ。さて、それをあなたは素直に受け入れられるだろうか。

学び

いつの間にか知見がたまると、それがまさに唯一の正解だと思ってしまう癖がある。まずはそれを看破しよう。そうして得られた体験は、確かにその当時においては有効だっただけで、古ぼけたそれが今でも通用するかどうかは慎重に検証を重ねないといけない。にも関わらず、そんな手間隙を惜しんであなたの正解を押し付けたところで、それを広く受けれいてもらえるなんていうのは傲慢すぎるわけだ。言い換えればこの場合の謙虚さというのは、今も現役で学び続けるという姿勢を保っているかどうかということと同じ意味となるわけだね。そう、今を生きるという意味ではあなたも若者と全く同じなんだ。だからお互いに学び続けて、悩んで苦しんで人生を満喫しているという部分では何ら違いはない。少しばかりやったことがあるという昔話をするのも悪くはない。けれどもそれが絶対的にそうなんだと言うのは無理があるわけだ。頑固さというのも学ばないという意味ではなく、死ぬまで学び続けるという強い意思であって、あなたのしがない常識を押し付けることではないね。