Stay hungry, stay foolish

日々

プロ教師

教えることを生業にしたいわゆるプロの先生なのに、心を揺さぶらされる感動を感じることが少ないのはどうしてだろうね。それはシンプルに教えることが目的になっているからだ。教えるということは手段や過程の一つでしかないのに、教えることで生活の糧を得ているプロだと勘違いすることで、申し訳ないけれどもとてもつまらない存在に成り下がっている。だからどうなるのか。これも不思議なことに画一的に同じ有り様になるのだけれども、怒鳴ったり怒ったり脅したりしてバラバラの個性を統一しようとしてしまうようになる。いわゆる厳しい怖い先生と成り果てるわけだ。もしくは、それを気にするがあまりに、ゆるゆるの優しいだけで何ら子どもたちの人生に真摯に向かい合わない上っ面の良い人を演じることになる。先生がどうしようもない中途半端な職業に成り果てたのは、そこが原因だと断定してもいいね。食べるための教師なんて、古来から存在すらしなかったんだからね。

寺子屋

この国には一斉授業や上意下達の命令に従うことが良いことだという教育形態はなかった。それはなぜかというと、教育の質とか学びの本質は、あこがれの先輩を真似ることだからだ。指導要領で画一的な学習のねらいとかそんな工場製品のような大量生産型ロボットを作っているわけではない。それなのに、先生という職業はとして成立させるには、結局のところ要件定義としてマニュアルどおりにできるかどうかが評価になってしまうわけだね。カリキュラム通りに遂行できることが優秀さとなってしまっては、本来の隠れた能力を引き出してさらにそれを伸ばすなんてことは、職務分掌として含まれることは絶望的だ。そんなことは評価の対象どころか、悪評になる。決められたことをきちんとできずに、臨機応変に個別対応することになるからね。そんな個別指導はそもそも一つのものさしで測るができない都合の悪いことになってしまう。職業としての教師がおおよそダメな理由はそこにあるわけだ。

教え育む

自然界における生命において、全く同じものが一つもないように、教育は画一的なそれではなく、本来は一人ひとりに合わせたオーダーメイドでしかない。それを効率化して先生の命令は絶対だと従わせることをいつの間にか教育とよび、教え育むなんて七面倒臭いことはやらなくなったわけだ。さらに時間で賃金が払われる資本主義の世界でそれを生業にするのならば、50分授業だからおいくらだとかそういう時間で価値を決める羽目になってしまった。その結果が現状だね。どんどん個性は潰され、命令がないと動けない人材を大量に生み出している。為政者にとってはそれが都合がいいだろうけれども、人類として生き残りる術をすべて奪った彼らは、これからの未来を創造することは難しいかもしれない。でも、どんな状況でも僅かな希望の光は残されている。それはそんなシステムの中での異端児が必ずいることだ。もう、そんなちっぽけな枠組みから溢れた存在が、未来を託す唯一の可能性だからね。