遠回りのススメ

日々

知ってるつもり

現代社会は情報にあふれる社会だね。スマホでちょっと気になることを検索すれば、山のように情報が得られる。それを見てあなたはまるで博士になったかのように、万能感を得ているわけだ。それを幼い頃から当たり前のように体験していると、すべてが実際の行動とは別に、すでに知っていることとして分類されてしまう。ところが、その知識は知見でも経験でもないから、いざそれをやってみようとすると思っていたのと違うことばかりがあなたを悩ませる。結果と結論は知っているというのに、どうしたことかと思い悩んでまたネットで検索する有り様だ。とにかく誰かが発信した経験を共有しているのにすぎず、実際に手を動かすことすら忘れてしまったあなたにできることは、クレームを言い続けることぐらいしか残らないわけだ。クレーム社会となってしまった背景には、何もやらないでもやった気になれるという情報化によって必然的にうまれているわけだね。

面倒事

だから、ネタバレしている映画を繰り返しみているような気分となって、いつの間にか自らやってみるという行動することが億劫になっている。面倒だなとおもうことのほとんどが、結論だけどこかで見たり聞いたりしていることが多いのはそのせいだ。何をやってもムダだと知っているのに、あえてそれをなぞるのは馬鹿らしいと感じてしまう。けれどもそういった行動の壁を突破して、同じことの繰り返しを厭わずにやった人しか、成功する人は出てこないね。どうせ失敗するんだから、と言われ続けてもそれを気にもせず同じようにやってみようとすることが、実は一番の知見であり、人生の価値そのものだ。ところが、先にそういう経験談を見て、まるで自らがそうしたように思い込むが故に、今度は下手に行動してほら見たことかと言われることが一番の恐怖となるわけだ。もうここでわかるだろうけれども、そうなった人ができる最後の砦が、文句を言うことぐらいしか残されていないわけだ。

先人が幾度も通ってきたその道は、もはや轍のように明確に刻まれている。だから、あなたはそれをやってみないでうまく避けようとしている。それが合理的でありムダを省くことだと信じているからだね。英語を習得するにあたって、専門家に最も効率よく学ぶ方法ばかりを聞いてしまうのもそのせいだ。でも、本来の学びだったり生きる喜びであったり、さらには何があっても対処できる力というのはそういった合理的な学習の中にはないね。回り道を散々したからこそ、後でそういった合理的な方法が見つかるものであって、それはムダだらけであったからこそそこまでたどり着くことができたとも言える。学びからムダなことを省いてしまっては、学び自体がつまらないものとなってしまう。だから、本質的な習得には一向に到達しない。見かけ上の点数が大きくなったり、それで資格試験は突破できたとしても実際に使えるツールとしては程遠くなるのもムリはない。本来の学びとはムダで遠回りなところにしかないのだからね。まさにそれは生きることと同義であるわけだ。