悟りすら実在しない

日々

目的と手段

いつも話しているけれども、目的があって手段があるとそういうシンプルな関係性で物事を見る癖がついてしまっている。本当のところあなたはどこにもいないし、誰かも実在しない。スピリチュアルがあまり好きではない人でも、科学的にはミクロに見ればそこには分子や原子の関連があるだけだ。そんなこともつゆ知らずな釈迦が見抜いていたように、あると思っているそれらは実在しない。語弊を恐れずもっといえばあなたにとっての実在は空であり色であるわけだ。簡単に言えばすべてがごく小さなつぶつぶの集まりであり、それも高度に密集しているのかと思いきや、その隙間はおそろしく広かったりする。もうほとんど無いに等しいぐらいのものでしかないらしい。それは科学的にはきちんと説明できるようになっている。そのあるかどうかもわからないことであなたは悩み、苦しみ、原因や目的探しの旅に出て迷っているという有り様だ。

原因と結果

原因を探してみたらすぐに行き詰まるのは、どこまで追及していいのやらが広大すぎてわからなくなるからだね。殴りかかってきた彼はあなたにとっては加害者だろうけれども、その原因はあなたが一言彼を傷つける発言をしたせいかもしれない。でも暴力はいけないと法律に定められているから、そのすれすれの嫌がらせを受けてしまったりする。もはや犯罪なのかいじめなのかわからないところで収まる場合がほとんどなのは、そのせいだ。でももっといえば彼がそういう性格になったのも、実は生まれ育った家庭に問題があるのかもしれない。さらにはその家庭の問題は当時の役場の職員が彼の家族の相談に親身にのらずに放置したせいかもしれない。とにかく、どこまで遡っても犯人は見つからないわけだ。あなたが悪いのか、あなたが正しいのかすら怪しくなってくるわけで、そもそも聖人君子のような人なんていう存在も実在はしないのだからね。

善と悪

それらはすべて二元論になっている。もちろんその加減によって段階を設定することができるけれども、すごく悪いか、とても悪いか、ちょっと悪いか、ほとんど悪くないのか、それらはすべてモノサシがあるわけではなく、あなたがなんとなく恣意的にそう決めているわけだ。それも状況や置かれる立場が変われば大きく変わるようなモノサシであって、それを根拠に罰することすら危ういわけだ。そしてあなたに敵意を持っている人や、あなたをいけ好かないやつだと思っている人はすべてあなたにとっての悪人だと決めたとして、その罪を罰することがなぜ正義になるのかという問いに答えられる人はいない。そもそもそんなものは実在しないからだ。ありもしないことで、あなたは悩み苦しみつらい日々を送っている。それがわかるのが悟りだと言って、かつての僧侶でさえ、悟った証明としてどれほどの苦行にも耐えることで表そうとした愚かな歴史がある。そんな苦しみさえ、あなたというありもしない実在を認めているから起こるわけだから、滑稽な話だね。そんな過ちをずっと繰り返しているわけだ。