オープンワールド
二元論
言葉の世界の罠にとらわれると、幻想がますますひどくなってこじらせてしまう。それ故に言葉をある程度うまく駆使したあとはボーっとすることをおすすめする。言葉を紡ぐということは思考そのものであって、まさにそれが自分がやっていると思いこんでいる状態だけれども、その言葉はあなたが発したように見えて実は誰かのものでしかない。もっといえば、言葉をデタラメに並べてみたところで何も伝わらないように、ある程度の文脈や順序が必要となる時点でそこに落とし穴があるわけだ。逆にその弱点を活用することで、同じ幻想を共有できるかのように思えたり、ちょっと何言っているのかわからない文章でも心が動かされることがある。狙いはそこにあって、厳密な内容ではない。すなわち正しい文章や美しい文章にしようとする行為は、そういうことをやっているわけだ。
連綿
肯定するのか、否定するのかという問題も実は真反対の意味を含むと思わせておいて、実のところその意図は同じことだったりする。確固たるあなたを認識するかどうかで始まる西洋哲学と、あなたなんて、もっと言えばこの世はすべて幻想であり何もない世界だと説く東洋哲学のたどり着くところは同じだからだ。ないとかあるとかも、ないがあるとかあるがないとか色々と言い換えることができるのが言葉の特徴だ。そもそも言葉を操るようになったからこその架空の概念を駆使できるようになって、見たことも聞いたこともない絵空事をまるで魔術師のようにこの世にありありと出現させることができるようになったね。それが良いとか悪いとかではなく、それを楽しまずしてあなたの人生は何を楽しむのだ、なんて言うとなんとなくすごいことを言っている気になる。けれども結局のところ何も言ってないのと同じことだ。
科学信仰
今はあなたの外側に注目をしている西洋哲学による科学がもてはやされている。神よりも科学を信じることで生活が便利になり、多くの人が暮らせる地球という星になったからだね。衛生的になれば長生きすることができ、長生きすれば人生を堪能することができ、そうすることでそれぞれの個性が尊重される豊かな社会が訪れるということだ。ところが現実にはそれはどう考えても一部の人しか享受できない。それなのに、野性時代に戻って食うか食われるかの荒野を駆け抜けるサバイバルな暮らしに戻ることはもはや不可能だ。一度その禁断の楽園に足を踏み入れたものは、魂ごと書き換えられてしまうからね。そこでどうなるかはもう想像に固くない。それを守るためにはどうするかを考え始めるに違いない。少なくとも限定的にしか楽園に暮らせないとすれば、選ばれし者はあなただと思いたいだろう。あなたなんてどこにもいないというのに、おかしな話になるわけだ。そうやって人は迷子のまま自然に還っていくわけだけれども、それでいいのだよ。