動的平衡としての生命

日々

縁起

関係性のことを東洋哲学では縁起と言う。釈迦に説法みたいな話だけれども、近代の科学主義でいえば関係性というか一種の相関関係とも言い換えられるね。あなたという生命活動を科学的に分析してみても、何も変化しない肉体的な部分は何一つなく、おおよそ数年ですべてが一新されている。一方で精神的な側面でいうと、あなたはずっとあなただと信じているわけだ。物質的には常にすべてが入れ替わっているというのに、気持ち的にはずっと同じだと思っている。端的に言えばその齟齬がいわゆる苦であり、あなたを悩ませる原因だと断言していい。あなたはあなたを見つけようとその詳細を観察し、つぶさにその区切りというか細胞膜のような境界線を見つけようとしてみても、結局のところどれもこれも曖昧で完全にあなた固有のものだと言い張れるのは遺伝子構造だとしか言えない。その遺伝子も化学物質である塩基配列でしかないし、塩基そのものはどこにでもある自然の一部であるというのが最先端の知見だね。

ウィルス

昨今新型のウィルスが蔓延したとかで、世界中が大騒ぎになった。ウィルスとは生物なのか否かという議論は未だに解決していない。おそらくは病原菌と同列にしか理解していない人がほとんどだろう。いずれにせよ目に見ないぐらいに小さな物質だからこそ、霊魂とか魂とかいうオカルト的な存在でもあるだろうね。基本的な医学や学校で習った理科の知識すらまともない人にとっては、それは如何ようにも捉えられる手品みたいなものだ。なにもないところ、すなわちあなたの目に見えないものがとつぜんあなたの生命を脅かす存在となって出現したように思えるからだね。ところがその手品の種を知っている人からすれば、なんてことのない未知のウィルスなんてそこら中にあるわけで、取り立てて恐れたところで幽霊やおばけに怯えるのと同じで無意味なことだとわかるだろう。そんな議論を持ち出せば、命は永らえるものであり、できれば失いたくないものであると反論するだろう。なぜなら、あなたは不変だと思いこんでいるからこそにあるわけだ。

自然はあなた

例えばお米が大好きなあなたは、田んぼの稲を見てそれがあなただとは夢にも思えないだろう。けれども、分子科学的にはお米はあなたが毎日食べて、それが消化されてあなたの肉体を構成しているわけだ。雲をみてもあなただと思えないのもおかしな話で、雲はやがて大地に雨となって降り、それが集まってせせらぎとなって川となり、やがて海へと流れ込む。海の水を飲むとしょっぱいので、川の段階で取水して浄水してあなたがそれで生きながらえている。それが証拠に一度災害にあって、水道が止まればとても困るわけだ。そんなの当たり前だと言う人でも、すなわち雲はいずれのあなたの身体の一部になり、稲はあなたそのものであり、牛や鳥や魚も同じようにあなただという感覚がまるでない。それはあなたが言葉の世界で生きているからだ。誰かのために頑張ることが奉仕であり献身的なことだと思って、少しぐらいは自分のためだけに生きていきたいなんてつぶやいたりするのも、あなたはこの自然の本質をまるで理解していないからに過ぎない。すべてがないし、あると思っていることは幻想だと説いたその意味でさえ、科学的にも哲学的にも思想的にもスピリチュアル的にも同じことを言っていることに、なぜかいつまでも気づかないわけだね。