本当に必要な力とは
最善
今ではベストプラクティスなんていう横文字で言ったりするけれども、そのときの最善の正解は、やがて時間とともに色褪せていくのは仕方がないことだ。それをわざわざあとになって、どうしてこんなことをしたんだと憤ってみても、それは今のそれとは違うだけのことだね。だから、そんなことでマウントを取ったところで、やがてあなたの正解も陳腐化するに違いない。要するに正解主義というのは未来永劫それが真実であるというものではなく、その時その時のベストとまで言えなくてもベターな一時的な仮説でしかない。それなのに正解主義に陥ってしまうといつものようにゼロヒャクの視点になってしまう。それの一番の弊害は、90点であっても99点であってもゼロと等しい判断となってしまう。それ故に何もできていない、思い通りにいかないという自己評価に陥ってしまうわけだ。そうではなくよく考えてみてもわかるように、すべての結果が大失敗なわけがなく、一定のグラデーションが存在しているという事実から目をそむけているのと同じだね。
分析
すなわち正確に評価するためには、現状を把握しそれに対する評価も二元論的な雑な判断ではなくグラデーションがそこにあるということを意識的に見つめ直すことが必要だ。ところがとりわけ正解主義や完璧主義に陥ってしまうと、どれもが100点でないと大失敗だと勘違いしてしまうわけだ。もっといえばそんな大正解なんて体験すらしていないのにも関わらず、それを目指すことが理想だとなぜか勘違いして気がつかないままでいる。ルールを守るか否かにおいて、少しでも破ったらそれはダメだと思っている。おおよそ守れたから結構良かったという評価はそこには無い。そんな価値観が未だに強く残っているのが学校教育だね。それは評価する側がとても都合が良く、シンプルに言えば自身を含まない他人事の評価でいえばあら捜しができ、マウントが取りやすいからだね。そんな指導側の利点のためのゼロヒャクに洗脳されてしまっているから、あなたは何をやってもダメだと自己肯定感が最低となっているわけだ。
見える化
改善するには、ある程度現状把握と分析ののために評価しなければならない。ところが、点数主義もあまり褒められたものではないけれども、このゼロヒャクの二元論的な評価ではほとんど不合格になってしまうというからくりだ。学生時代に数学が98点でよく頑張ったと評価されるかと思いきや、あと一問でパーフェクトだったのにどうしてそこまでわかっていてあと一問ができなかったのだ、と叱られたりする。まさにこれが評価者のマウントであり、完璧主義の象徴でもある。社会に出て98点の評価を受けることはほぼ無い。しかしながら冷静にみれば大失敗だと本人が思っていても、それ以外はそれなりにできているのでおおよそのことは60点70点を推移しているはずだ。大成功もなければ大失敗も実はなく、ほとほどのところでバランスしている。にもかかわらずそれをそのまま評価してしまうと、都合が悪い上司はもっとできるはずだとか、ちょっとまずいところばかりにフォーカスして大失敗だと言い張る。そのことでいい意味では能力を引き出そうとしているといい、悪い意味ではらくして稼ごうという下心があるわけだ。そんなことぐらいは看破できる力を若い頃に培ったほうが、その後の人生はハッピーにできる力を備えることになるんだよ。