便利さは孤独になる

日々

コンビニ

現代社会を大きく変革したのは、いつでもどこでも開いているコンビニもその一つだと言えるね。夜になってお店が閉まっていることが当たり前の時代では、すべては一旦夜が明けた明日になってからにしか何もできなかった。その分、とりあえず明日までの時間がしっかりと確保できていたから、それが本当に必要かどうかを吟味する時間もあったわけだ。ところが、いつでもあなたの欲望を叶えてくれるお店があるおかげで、あなたはそういう夜明けまでお預けという時間を過ごさなくてもよくなったわけだ。思いたったら吉日ではないけれども、ああ、夜中に小腹が減って冷蔵庫に何も無いなんていう絶望的な状況でさえ、歩いて数分のコンビニに行けば解消されてしまうわけだ。いつでも満たされる毎日が過ごせるだけでも、それを変革と言わずしてなんというのか。学生時代にノートが残り少なくて宿題ができないと嘆いたときも、今は瞬時に解決ができる。その分一旦ぐっすり眠って明日の朝にお店が開くのを待つなんていうのんびりとした時間は存在すらしなくなったわけだね。

余白

便利さと引き換えに失ったものは時間だけではない。あなたのコミュニケーション能力もそのうちの一つだね。例えばご近所さんに調味料を借りに行ったり、少しだけ余っている食材を譲り受けたりして、まさに困ったときはお互い様だというコミニュケーションがそこにあった。もう人付き合いが苦手だとか言っている場合ではなくて、なんとかこのピンチを助けてくださいと素直に吐露することで、ある意味運命共同体というか信頼関係を自然に獲得していたわけだ。もちろん、お礼を必ず後ですることになるわけだけれども、それもイヤイヤしているわけではなく心からの感謝を伝えることができたわけだ。ところが、今はそんなことすらもやらなくて済む時代だし、それができると知っていてわざわざ面倒事を押し付けてくるご近所さんは、おそらく嫌われてしまうわけだ。もはやお互いに不必要な存在と化してしまっているので、そんな密なコミュニケーション自体が不要なんだからね。そうやってコミュニティが破壊され、なんでもないことを話すきっかけも奪われてしまっているわけだ。

迷惑

眠らないコンビニは、大げさに言えば人が一人生きていくのに、誰にも迷惑をかけずに生きられると錯覚させたものであるとも言えるね。もちろんすべてをカバーするぐらいのものではないのだけれども、大抵の緊急事態は凌げるそこそこの便利さでバランスしている。それがまた大いに問題なんだけれども、極めて完全な状態ではなく、そこそこというのがキーワードだね。それでもどうしようもないことがある。例えば命の危機に瀕したとき、やっぱり自分ではどうしようもないときにはご近所さんに助けを乞うこともあるだろう。しかしながら大きな障壁はそこで、よっぽどのことがない限りにおいて普段から交流もない状態で、そんなときだけそうなったとしても、お互いにどうしたらいいのかわからない状況に陥ってしまうことだ。基本そんなことを受ける側としても、お願いする側としても必然性は希薄だね。そのときの気分や善意に依存してしまうことになる。だからそれなら勝手に救急車でも呼んだらいかが?なんていう話になりかねない。スマホという情報端末もあるのだから、特にご近所さんの意味も薄れてしまっているだろう。そうやって村社会が個々の暮らしに分解されたのが現代社会だね。しかしそれもいつまでそうであるかもわからないものでもあるわけだ。