奇跡の連続

日々

点滅

あなたはあなたと思っているそれは、実はあなたではないことに気づく。そうすると、すべては縁であり関係性の中でぼんやり浮かび上がっている虚像にすぎないことを知る。さらには絶対的な不可侵のあなたというホームも実はその幻想のうちの一つだ。そうなると、あなたが溶けてなくなり、すべては空であり色であるのに、まだそれならどうするとまたあなたという幻影に右往左往してしまう。いつまで経っても堂々巡りを繰り返しながら、この世を謳歌することになるわけだ。夢か現実か、その狭間の中であなたは強く現れたり消えたりするようなものだ。ようするに高速に点滅しているモニタのつぶつぶの光源そのものだと言っても良いね。ここでミソなのはずっと光り輝いていればそれだけ不自然だということ。すなわち必ず消えている瞬間があるのが自然であり、ずっと光り輝くことはかえって不自然で全体の流れの中ではエラーそのものだということだ。

その中であなたはできれば消えている瞬間はガン無視して、輝き続けたいと願うわけだ。それがあなたが知っている幸せの形だからね。そうやって不自然な状況を目指すことで、あなたはかえって苦しみをより強く感じることになる。もちろんそれによって、先の気づきに少しずつ近づいているのだけれども、そのときはまさかそれが真実だなんて看破することはない。そうやって人生は皆苦だと嘆き悲しむわけだ。ところが、それそのままに幸せの仕組みだと知って驚愕するわけだね。それと同時に一番の邪魔はあなたという幻影にとらわれて、不自然な流れを起こそうとしているあなた自身だと言うことが腑に落ちたならば、あなたはもはやあなたではなくなる瞬間でもある。ただ流れに身を任せて、その瞬間を楽しむことしかできなくなるわけだ。そのからくりを体得した人は、そういう目になるのもある意味必然であり、それでも幸せの幻影から逃れられないままでいるから、苦労ばかりの人生だと勘違いすることになる。

善悪

できればより良い人生を歩みたいなんて思うのも、以上のことからほどほどにしておくことがちょうど良い塩梅だとわかるだろう。その逆もしかりで、悪人になってすべてを利用して思い通りにしてやろうなんて思うのも同じことだ。要するにより良き人生だと思っていることも、悪人になって利用してやろうと欺こうとすることも、全く同じことだということだね。いずれにせよあなたはここにいないわけだし、それをやろうとしていることそのものは自然の恩恵のようなものだ。あなたはあなたがいると思いこんでいるから自らの選択だと信じているかもしれない。ところが、あなたが自らの選択ができるなんていうことこそ、馬鹿げた話はないね。だって、あなたはどこにもいないわけだからね。だから何も自由意志がないといって悲観することも必要もないし、そう思ったところでそれも同じことだ。静かに微笑んでいるしかないのも、あなたが自然の一部でしかないし善悪や意思などもそこにたまたまあるように見える奇跡に過ぎないからだ。