言葉を捨てよう

日々

言葉にできない

初めての体験を、なんとか言葉で表現しようとすると過去のなにかに無理やり当てはめることになってしまう。いまだかつて体験していない奇跡を、過去にもあったなにかに押し込めるようなものだね。言葉になんとかしようとする段階で、初めてのそれを知っているなにかに変換することになるからだ。そうではなく、それはそれで味わえばいいだけだし、なにか感想を述べないといけないと思っていることから脱却するのが得策だね。得も知れぬなにかをそこで感じたならば、ただただそれだけでいい。何も言わなくても大丈夫だ。それなのに、なんとか過去の経験というか知識と似通ったものを必死で探し求めて、それに当てはめてしまうのはせっかくの二度と無い貴重な体験を台無しにする恐れがあるから注意したほうがいいね。そういう意味ではあなたは今ではなく過去の何かを探し求めて生きていると言っても過言ではないわけだ。

説明不要

あらゆることに説明責任が伴うような社会で生きている。だから、なにか新しい驚きをなんとか知っている言葉に寄せようとしている。それがないとつまらない人だと思われてしまうという恐怖心からだね。あるいは誰にも求められてもいないのに、自分自身を納得させるためにそれを無意識的にやってしまっている。初めてのことは初めてなんだから、まだ言語化できる準備が整っていないわけで、だからこそ説明は不可能なんだ。なんでもレポートしなければならないとか、アウトプットが大切だとかそういう世間の常識を真に受けて、それを表現することが優秀なことだと思いこんでいる。逆に何も言えないことに恐れているのは、知らないことがあるという事実を受け入れがたいわけだ。なぜなら経験値が低いことが能力が低いという意味として同じことだと分類してしまっているからそうなってしまう。あなた自身も言葉にすることで、実際の感動には程遠くなって陳腐化してしまっていることを感じているというのにね。

無言で語る

言葉は思考をするためのツールであり、それを持ち出すことでせっかくの体験が台無しになってしまう。それはそれとしてそのまんまあなたが受け止めたらそれだけでいい。何もあなたの陳腐なボキャブラリーの中から似て非なるものに押し込めなくてもいい。実際本当に美味しいものを食べたとき、誰もが無言になってしまうのはそういうわけだ。それをなんとか伝えようとしたところで、そもそも表層的にしか伝えることができない言葉でなんとかなるレベルのものではない。一番知っているのはあなただけであって、それは唯一無二のものであり表現のしようがないのが普通だからね。百聞は一見にしかずというのは、誰かの得も知れぬ体験を言葉化している段階で事実とはかけ離れているから注意しなさいということを伝えている。四の五の言ったところで、なんでも体験するしかない。それがあなたの人生だけに起こったことであり、似たような話は実はかなり薄っぺらな情報でしかないからだ。まずは行動をすることが生きる意味としてほとんどを占めているのはそういうわけだね。