タイパという奴隷洗脳

日々

学び

戦後教育がことごとく失敗しているのは、明治以降に導入した上意下達の授業によるところが大きい。絶対的な指揮命令を司る上官としての先生が中心にいて、その教えを請う生徒という関係は全く持ってそれぞれの個性と能力を引き出すものではないからだね。それどころか、上官の命令が絶対であることを叩き込まれて、勝手な判断をさせないところが一番のテーマとなっている。だから、友愛とか努力とか勤勉なるものが未だに学校の標語として掲げられているわけだ。まさにそれはこの国を守る軍隊としての教育そのものであり、そこに自由闊達な議論など存在し得ないわけだ。軍隊としての教育は、一人が勝手な行動をすることで部隊全体の消滅を意味する。だからそれこそ徹底的に個性を押し殺し、自由な発想を封じ込めるようにできている。もちろんそういった側面としては全く持って妥当性が高いわけだけれども、今生き死にの戦いによって国土を守るなんていうことが徐々になくなった時代には全く無用なことに成り下がってしまったわけだ。

道徳や躾にもそれは当てはまってしまう。自己主張よりも周りへの気配りが結局のところ多くの仲間を救うことになるという考えは、未だに根強く残っている。もちろん、奪い合えば足りずに譲り合えば余るという美徳は現代でも通用する大切な価値観ではあるけれども、だからといって自らの意見を主張することを憚られるものではない。生き様としてのそれと、だからといって思考停止にさせて洗脳するのとは全く意味合いが違うわけだ。理想を言えば、自らの意見を周りの影響度とともにしっかりと検証できる力が必要な時代において、教育とは指導や命令ではなく、待つということに尽きるね。どれだけ不器用で時間がかかったとしても、それをおおらかな目で見守ることが本来の能力を引き出すことである。それなのに上官の価値観をすぐさま押し付けることでそれぞれの考える時間を奪ってしまっては、もはやその後の人生において自らで思考する術すら奪ってしまうことに等しいわけだからね。

いい子

いい人材やいい子というのは、自らの意見よりも周囲の状況にうまく合わせられる人のことを指している。いわばプログラミングしたロボットであることが優秀な工業製品としてのそれと何ら変わらない。本来の子どもたちは大人の言うことを全く聞かないのが自然の状態だね。そうすることで、自ら失敗して経験して学ぼうという本能がそこにある。ところが多くの親や大人は、それまでじっと待つことができない。それもこれまで彼らが受けた教育という名の洗脳であって、じっと待つことが悪だと教えられたからにほかならない。グズグズとしていることが、無能だと叩き込まれてきた結果だね。その連鎖で大人は子どもたちが自ら学ぶまで待つということができなくなっているわけだ。そのせいで、そうやって教えられた次世代は同じことを我が子にもきっとやってしまうだろう。そうやって悪習慣が一旦正義になってしまうと、取り返しのつかない状況を生んでしまうわけだね。目まぐるしく変わる現代社会においては、一番そこを変えなければいけない部分なんだよ。