言葉のない世界で
何を取り戻すのか
あなたはいつもあなたを見失っているから、犯人探しを外側に求めている。あいつが悪いとか、社会が悪いとか、状況が悪いとかで怒りがこみ上げてきてそれを抑えようにも抑えられない感情に支配されている。怒りは自らの選択であって、怒りたいと思うからその原因を探しているのにもかかわらず、それが見つかったからそれをエビデンスとして、変な表現だけれども安心してそれに怒りをぶつけることができるわけだ。ほら、やっぱり俺は悪くないと免罪符をもらって、そのなにかに怒りをぶつけてることに躊躇がない。でも、それも実のところ怒りが先にあって、その理由を探しているだけのことだね。すべてはあなたの思い通りというわけであって、こんなにも不幸なあなたを誰かに主張して同情をかおうとしても、周りはどちらかというと白けていることが多いのはそういうことだ。あなたはそうして悲劇の主人公を演じてご満悦なわけだね。
不幸自慢
若い頃は、今の若者よりも苦労を買って出たことを自慢げに語ったり、今の時代は豊かになってつい忘れてしまうことに対して愚痴を言ったりしてしまう。それもいわば自己評価を上げたいという一心からであって、それ以上の内容はそこには存在しない。そもそも時代背景が違うことを自慢気に語ったところで、今を生きる人たちにとってそれをどう受け止めて良いのか困惑しているだろう。あなたが所与のものとしてそれを語っているのだけれども、その共通認識が全く存在しないか、ずれてしまっているからだ。さらには努力や苦労がどれほどのものかを伝える言葉自体も、曖昧であって実際の具体的な何かを表すものはない。もちろんそこで比喩表現を多用することになってしまうのだけれども、例え話をすればするほどどんどん嘘、大げさ、紛らわしいというダメ広告のような状況に陥ってしまうのが関の山だね。
思考と忘却
そこで、そんな昔話は綺麗さっぱりに忘れてしまうことが一番の得策だ。そもそもあなたが苦労したなどという逸話はその当時ではなく、今の創作に過ぎないからだ。本来の言葉の世界はまるでそうであったかのように表現することに長けている部分があるのは、表意文字としての共通認識に依存するところが大きいからだ。悲しいといえば過去も未来も超えてそれを共感できると信じているし、程度の差が確実にそこに存在したとしても、なんとなくまるっと楽しいことではなかったという認識を得られるように見えるからだ。だから言葉を駆使してあなたはあなたが感じたと今思っているそれを伝えようとしている。ところが、それは実態がある言葉ではなくあくまでも概念を指す言葉だね。だから、概念なんてものは共感があるという前提条件がないと成立しない制限がある。優しい人というぼんやりとした定義があって、それは誰にとってもそうであるとは限らないことが多いのはそのせいだね。怒りや喜びなどもあなたが思っているほど、世界共通の普遍なものではないんだ。