合成の誤謬

日々

没頭

仮説検証を繰り返しているのが普段の思考の流れだね。こうじゃないかな、こうしてみたらどうだろう、という単なる思いつきを実際にやってみてフィードバックしている。そうやって高速に繰り返し失敗しているから、ある日突然、うまくいったりする。ところがそれを同じように再現できるかというと、たとえ条件を同じにしても似たような結果が導き出せたとしても全く同じになることはない。それらを抽出したのが現代の科学と呼ばれるものだね。統計を駆使して、飛び値を排除して洗練された傾向や集合を抽出して傾向を導き出すことだ。だから、かなり現実のブレをできるだけ排除してクリーンなデータのみを採用する過程で、現実離れした結果が出てしまう。そういうのを社会学では原理と呼んだりする。その原理は何かと現実的にはそうではない例外はあるものの、一般化した傾向から基本的な流れを抽出しているわけだ。それらは確かに検証すればそれっぽい結果を得られることがある。けれども必ず例外も同時にどうしても発生してしまうわけだ。

個性

その例外を排除するのではなく、多様性という概念において認めていこうというのが現代の意識潮流だね。おおよそ人類においては生物学という原理において男女に分類されるわけだけれども、今やその区分は性別というそれを超えてジェンダーという意識上の問題へと発展しているわけだ。そこで男女を前提とした社会システムにおいて、いろいろな不都合が起こってしまったりしている。もちろんそれらは人類の知恵によって解決していくべき課題だとされている。けれども、どう考えても生物的な性別と、意識上とのズレをすり合わせる手法はまだ見つかっていない。そこで旧来の分類と意識上の分類は常にバッティングすることになる。どんな考えの人がいても、どんな個性を持っていても、それぞれが幸せに暮らせるのが現代社会の目標とするのならば、それらの折衷案というかうまくやりこなすことが必須なんだけれども、それに抵抗するのが旧来の意識を尊重する人たちが少なからずいるのも事実だね。

執着

これまでの正しさをずっと保とうとするのは、生物の本質である動的均衡という科学的な意味合いでも、東洋哲学のこの世は空であり色であるというものとは相容れない。正しさなんていう固定観念を保ち続けることこそが、ほとんどの社会問題を生み出す根本原因になってしまっている。もっとその原因を単純化すれば何が善で何が悪かという二元論にたどり着くわけだ。信仰もそうだし、倫理観や道徳観もそうだ。何をもって正しいかという経典がそこにあって、それに従って間違いなく生きることが理想だとすると、最後には殺し合いまでに発展してしまうことは知っているだろう。さらに言えばそれには善悪を超えた超越的な言い訳のなにかが必要であり、古来から聖戦などという言葉を生み出して正当化してきたわけだ。それがいかに愚かなことだと知っていても、やっぱり歴史は繰り返されている。おそらくは正しさの衝突がすべての苦の源泉であることは間違いないわけだ。