あなたが決めたこと

日々

正義と心

自分で決めたことをやるから、ワクワクするわけだし、そこでたくさんのことを学ぶことができる。誰かに強制されたことは、一刻も早くそこから逃げ出すことばかりが中心となり、そこに学びはない。そんなシンプルな構造から現代の教育を見てみると透けて見えることがあるね。奇しくもオリンピックが終わったばかりだけれども、指導者と選手という関係性は、古い根性論からどんどんアップデートしなければならないことが多いだろう。絶対的な指示や命令に従えば、当座の強いチームや選手が生まれるかもしれない。けれども、それは選手生命自体を短くしてしまうことは否めないね。多少の苦労と無理をしてまでも、勝ちにこだわるだけになってしまうからだ。目標と目的が入れ替わって、楽しんで続けるそれと、とりあえず勝つためだけの施策とは雲泥の差があるからだ。もうこれで終わっても優勝という甘美な快楽を求めてしまうのがせいぜいのオチになってしまうからだ。優勝経験者としての過去をずっと引きずって生きるしかなくなるともはやそこにワクワクはない。

なぜ楽しむのか

それは、あなたがこうしたいという思いから自己決定したという事実があって、それに対してどれくらいのスピードでそれをやるのかを決められるかどうかがその分かれ道になる。怒鳴られたり叱られたりしながら、それに向けて一心同体となって頑張る姿に感動を覚えることもあるだろう。けれどもそれは、本来の姿からは全く持ってかけ離れたものであることに気がつくことができるだろうか。何人金メダルだったとか、それをここで実現したという結果ばかりにとらわれてしまえば、気が付かないうちにそれに満身創痍で従うことが正義となる。そしてそれを見た他の人にもその苦難を乗り越えたことに感動を覚えるだろう。しかし、それは逆に言えば次はもうないかもしれないという犠牲のもとに成り立っているわけだ。また周りが応援するということで、力をもらえることが美談とされるだろうけれども、実は消費されて忘れ去られてしまう一コンテンツでしかない。

そもそも

本来の楽しむことは、誰かに規定されたり、ましてや世界一にならなければならないことではない。下手くそでもいいし、プロでなくてもいいし、お金を稼げなくてもいいはずだ。好きだからそうしているだけだし、楽しむことが一番の目的だったはずだ。ところが世界大会において一番になるという他人の期待を背負わされることで、その尺度が壊されてしまっている。もちろん勝負ごとなので勝ちのこだわることは一つの重要な要素ではあるのは間違いない。かといって、何が何でも今そうするかどうかという選択の余地は残されているわけだ。何も一番にならなくても常に2番手3番手であっても、それを長く楽しむことができるのならばその方が自然だね。世界大会に対する少しの違和感はそこにある。勝負ごとなので勝つために頑張るというまでは同意できたとしても、そこに自己犠牲や無理や楽しくない瞬間が生まれてしまうのならばそれは嘘になる。自己犠牲は自己決定ではない。自己決定ができるからあなたが人生を切り開くことができ、さらにそれを楽しめるのだからね。我慢や忍耐もそれに含まれるのが本来の姿なはずだからね。