教え育むことの真理

日々

夢を叶える

ワクワクしながら挑戦できたなら、それは苦行とは言えないね。自分でやりたいことを追求しているのだから、どんな困難が立ちはだかっても果敢にそれに向かう事自体を楽しむことができるだろう。もちろんそれの壁が高すぎてどうしようもない場面に直面することもあるだろう。けれども、その高いハードルを要素に分解して攻略方法を考えたり、あるいは違う角度からそれを分析して真正面から攻略する以外の方法を見つけ出したりできるわけだ。そうやって失敗を重ねているうちに少し前進しただけであなたのモチベーションは最大化する。そうやって夢中になってやっているうちに、およそ他人からすると越えられない壁をなんなくクリアしているように見える。でも当人はそんなだいそれたことをやっているつもりもなく、なんかやっているうちにそうなったんだよと笑いながら言うしかない状況だね。

成功法則

粘り強く何度もチャレンジする根性論からどうしても抜け出せないのはそこにある。だから厳しく辛い日々を過ごさないと決して成功したり夢なんてつかめないという理論に発展してしまうわけだ。確かに一度ですぐに結果が出るようなことは、夢や成功とは言わないことから、まことしやかにそれが独り歩きして固く信じられてしまう成功法則として蔓延してしまっている。だから、厳しく叱咤激励する指導を優先的にしてしまうコーチや指導者が生まれてしまう理由だね。厳しさの中にしか優しさはないというのは本当のことであっても、だからといって自己決定していない強制された苦しみはそこから逃れることしか考えられない。そんな強制の中で幼少期を過ごしてしまうと、彼らが大人になったとしてもそれが成功の一因だと信じて同じ指導を繰り返してしまう。苦労をした方がよりよい結果が得られたんだとなんとなく思っているからだ。

努力

だからダラダラすることも、努力をしないことも、すべては悪となり許せないことになる。そういう悪事を働くものには厳しく体罰を与えなければ矯正することはできないと信じている。根性論がいつまでも消えないのはそういうからくりだ。それは成功した結果、振り返ってみれば凡人がおよそできないような日々の反復練習をいともたやすくやっていたり、なにかしたあとの反省やフィードバックを大切にして常に研究し続けているという事実から導き出された原理のように見えてしまうからだね。しかしながら当人はそんなに苦労したわけではないと思っているし、それがましてや他人から強制された奴隷のような指示だとは微塵にも思っていない。そこの分水嶺はどこにあるか。それは自らのことをきちんと自己決定して納得しているかどうかに関わってくる。下手な指導者は叱りつけてなんとかそれを再現しようとしてしまう。けれども一番の重要な要素は、本人が自らそうしたいと腑に落ちているかどうかだ。そこに大声も暴力ももはや必要はないね。ほんの少しの違いが大きく異なってしまう。自分の苛立ちをぶつけるような指導は、もはや能力を引き出すどころか、なにかあったら誰かのせいにするような卑怯者を生み出してしまうから注意が必要だね。