すべては思い出の中

日々

意識

今にいようとすればするほど、過去と未来に支配されてしまう。過去を振り返らないと思えば思うほど、過去にフォーカスしてしまうし、まだ見ぬ未来を気にしないでいようとすればするほど、未来に依存してしまうのだからね。今はそうやって相対的にしか意識することができないからそうなるわけだ。なら本当に今にあるにはどうすればいいのか。それは何も考えないという方法しかなくなるね。ぼーっとしている時間を増やすことで、実はそのぼーっとしているときこそが今にあるという状況になる。だとすれば、今にあるという感覚すらぼんやりしてしまう。そうすると今を生きると簡単に言うけれども、実はとんでもなく困難であるし、それができたとしてそれを認識しようとすればするほど、弊害が大きくなってしまうということだ。だから、観念的に今にあれと思ったところで、それは全く違った状態を続けてしまう罠となる。

消える幸せ

それと同じことがあなたが感じたい幸せもそうだろう。きっかけはよくわからないし、後付の理由はなんとかひねり出すことができるかもしれないけれども、それをどうして幸せと感じるのかなんて理由はない。でも、ふとしたときにもしやこれが幸せという感覚なのかと思うことがあるだろう。それでそれを捕まえようとして分析するような思考を始めた瞬間に消えてなくなってしまう。それは先の今にあれと言われて、今だけを考えようと意識し始めると今ではなくなってしまうことと似ている。それも先人の教えのように、何もないことこそが幸せなんだという言葉で表されてしまうのも無理はないね。ところが、そうであるならば、なにもない状況を一所懸命に作ろうとしてしまっては本末転倒なわけだ。そもそも幸せとは求めて与えられるなにかではないからね。あなたがコントロールしようとしている段階でおかしな話になるのも無理はないわけだ。

あなたはいない

だから、よくわからない言葉になってしまうけれども、あなたはどこにもいないと言う言葉で表現するしかなくなる。これもすべてをその言葉によって表現できてはいない。けれども言葉の限界としてはそう言うのがせいぜいのところだという意味だね。だからそこに違和感を感じるのはある意味正しいわけだ。だってあなたはここにいると思っているし、思うように手足が動かせると思っているし、意識的に人生を切り開いてきたと思っているからだ。そう、そう思っているというのがあなたのすべての集大成である。すなわちそれは記憶の中でしかない。なら記憶は実態があるのかといえば、言葉ではあくまでも過去にそういうことをしてきたと言い張っている情報であって、それがそうだったかを知るのもエビデンスもあなたとあなたの知り合いの一部だけでしかない。そのあなたもあなたの知り合いも友人もすべてはあなたの脳の中のメモ書きに書いてあるからそうであるわけで、取り出してなにか物質的なものに変換するのは難しいわけだ。すべては観念、概念の中で起きていると言われるのはそういうことなんだよ。