一手間

日々

便利は悪

これだけ便利になった世の中では、一手間かけたものがより愛情のこもったものとして捉えられるね。スマホでメールして終わり、ではなくて、紙とペンで綴ったお手紙の方がより丁寧に感じられ、今では希少なものとして有り難がられる風潮にあるのかもしれないね。ひと昔前では、皆がそうしていたので手書きの礼状なんてありふれていた。というか、それしか選択肢はなかったわけだよね。デジタルの時代は、画面上で文字を読むということが主流になって、逆に手書きの文字なんかは達筆なものほど読みにくいと思ったりもする。要するにどちらが正解と主張し合っても、時代背景によってその意味は大きく変わってくるわけで、どちらが正解とかはもともとどこにもないんだよね。

今はスマホの中にすべてがある

写真なんかもそうだね。わざわざカメラを持って、フィルムを入れて、街の写真屋さんに現像に出すまではどんなふうに写っているかなんてわからなかった。時には全部失敗していたりもして、そんな時はがっかり。今ではスマホ一つ持っていれば、気の向くまま映像で記録できるね。少し前では旅先の感動をお裾分けするためには、絵葉書を買って一筆書き加えて郵送するしかなかった。いまだに名産品などは宅配便で送るしかないのかな。いや、もはやぶっちゃけると旅先まで行かなくても、自宅から名産品をお裾分けできる時代だよね。日々の暮らしをより手軽にスマホの中に閉じ込めることができて、瞬時にそれをデータ通信で世界中に共有できる時代だからこそ、手間隙かかってやり直しもそれほどできない旧来のアナログの方がより優れているだなんて言い出したりするんだよね。とかく人はないものねだり。あっちがいいとかこっちがいいとか、いつもないものを求める癖がある。

料理は愛情

手作りの惣菜とスーパーで売っている惣菜を比べて、あれこれ言うのもそうした流れだよね。母の味とか言ってそこに特別なものを求めている。母は料理を作るものだという認識がそこにはあるね。別に父の味でもとなりのおばちゃんの味でも構わないはずなのにね。自分がそうだったからそれが一番だと主張するのは、逆にいうとそれ以外の価値観についていけないからそうなるわけだよ。多種多様な人生があるからこそ、自分とは違うことがわかるし、同時に自分はそうであったということも気づかせてくれる。要するに自分がしてきたこと、体験してきたことが一番だと主張しているに過ぎない。そうなると、自分とは違った存在に対して寛容にはなれない。自分がすべてだと言っているだけの話だよね。

常に繋がる時代

今までは他人がどうしているのかという情報すら、それほど多くは得られなかった。今は多種多様な価値観が否が応でも襲いかかってくる。それは常に情報だけが瞬時に世界を駆け巡っているからだね。そこで自分の考えと違ったものを見つけると急に不安になったりする。でも安心していいんだよ。見なくてもいいことは見ないでいい。だって正解は一つじゃないからね。こうあるべきという視点が自分で自分を縛り付けて苦しめるもとになっている。そんなことより、みんな違ってみんないいということを、膨大な情報が知らせてくれているんだ。ということは、どうあってもそれぞれでそれが正解であって、それでいいという気づきは、小さな悩みから開放してくれているんだよね。そこに気がつけば完全なる自由にずっと囲まれて生きてきたんだということに感謝しかなくなると思うんだけどね。