好き勝手に生きる

日々

自己決定

あなたはうっかりすると、あなた自身の人生を歩んではいない。そんなふうに言われたところで、自分のことは自分が一番良く知っているし、逆にあなたのことを誤解したり、理解してくれない存在に苦しめられていると思っているだろう。そう、それがその証拠でもあるんだよ。すなわち、あなたは誰かや外側のなにかを基準として、それらに評価されないとか理解してくれないということに振り回されているだけだからだね。そんなものはよく考えてみればあなたにとって全くの影響を与える力すらないんだ。それらが大きな影響力を発揮するのは、あなたがそれを過大評価しているからに過ぎない。すなわち、変な結論となってしまうけれども、あなたがいつもあなた自身の内面ではなく、どう見られているか、どう評価されているかだけが人生の基準にしているから、何ら気にすることもないことを大げさにふくらませて、結局のところ大きな力をせっせと与え続けているのと同じとなってしまうわけだ。

心の声

あなたの本当にやりたいことをやればいいだけのことだ。そのためにあなたは今そこにいる。もちろん、あなたには誰かを愛する権利や大切にする権利はある。しかしながら、あなたが誰かに愛されるべき権利とか、評価される権利はないね。あなたがそうしたいからそうすることには何ら制限はなく、いわば好き勝手にやっていい。もちろん、それはあなたのやりたいことが誰かにとっての権利を侵害するようなことであれば、慎重になる必要はある。あなたは好きなことをやる権利、何もしない権利はあるけれども、誰かの邪魔をしたり、誰かを苦しめたりする権利までは持っていないからね。その前提条件においては、全く持って自由であるとも言える。何も誰かの顔色を伺う必要もないね。チェックすべきことは、誰かの権利を著しく侵害していないかどうかだけになる。それだけは少し気に留めておけばそれで十分だね。人に親切にしたければそうする権利はあるし、優しくしてあげたいならそうすればいい。ただし、そうだからといってしてあげた当人がそれに感謝しなければならないという押しつけはできないんだ。

平等性の担保

そうは言っても、お互い様である社会において、その関係性は全くゼロにしたり無視したりはできないね。だからできる範囲の配慮でいい。多少迷惑になるかもしれないけれども、実質的な苦痛がそれほどでもないのならば、あなたは好きなことをやればいい。家でゴロゴロと休日を過ごすと、家族は家事の邪魔になるとかいい出すかもしれないけれども、それほど大きな権利侵害がなければ大丈夫だね。いい年した大人が家で引きこもっていても、自分の分の最低限の稼ぎがあればそれ以上咎められることはない。たとえ仕事を満足にやらないとしても、クビになるほどひどくなければ気にしなくてもいい。もちろんその逆のしかりで、仕事を人よりも頑張りたければそうすればいいね。とにかくあなたは自分の欲望を上手に開放する権利がある。と同時に他人もそうしたいわけだから、それをできるだけ侵害しないようにすればいい。お互いにやりたい放題が自然な状態だとも言える。その中で心地よい空間を探し当てられるならばそれ以上に幸せなことはないわけだ。