善悪は誰のもの?

日々

評価

他人の評価に生きてはいけないとよく言われるね。だからといって、他人の評価を気にしないとか、受け止めないとか、そうやってやり過ごそうとすればするほど実は一番気にしていることになる。ありのまんまで生きようなんていう言葉を聞いてしまって、それに従わなければ幸せになれないと思ってしまうと、その真逆になってしまう。いわば法則のようにそうなってしまうのは、明るさを求めて暗さが必要なのように、いずれも概念上では対極によって支えられたものだからだね。少し意味が違うけれどもまるごとひっくるめて受け止めるというのが本来のあり方だとすれば、なんのことはない他人の評価に一喜一憂している今のあなたでいれば自然な状態だということになる。だから改めて何かを変えようとかする必要もないんだよ。

良し悪し

世界中で代表選手ではあるけれどもよーいドンをしてカケッコで競争したら、順位がつくね。それで一位の人は優勝となるわけだ。そして当然ビリになる人が絶対にいるわけだね。あなたはできれば一位になることができたら、どんなに良いことかと思っている。だから一所懸命練習するのかもしれない。ある人は、カケッコが好きで暇さえあればいつも走っているような毎日を送っている。そんな人も比べてみたら意外と速いことがわかってきて、それならそれでもっと楽しめるかもと思っていつもより少し走っている時間が長くなっているかもしれない。比べて順位がつくことは、それ自体は自然のことだ。だから順位がだめだとか、そもそも競争がだめだとかはない。そのときによーいドンをして一番だったのか、ビリだったのかだけの現象がそこにあるだけだ。それに優劣とか良い悪いとかのヘンテコな意味を与えてしまうから、不自然になるだけのことだね。

そのままの意味

テストの点数はそのときのスナップショットだ。すなわちその時限定の瞬間を映し出しただけのものだね。今はあなたも変わっているだろうし、まわりの人も同じだろう。たまたまを固定化したのが順位である。痩せているとか太っているとか、背が高いとか低いとか、そんなのは並べて比較すれば順位がつくのは当然だね。だから比較することそのものを毛嫌いするのは、比較を悪いものだと思ってしまっているからだね。すべては比べて並べて見られるわけだから、それを無理に良いとか悪いとかの問題にすり替える必要はない。もちろんそれに興味がないならばそれすらも気が付かないだろうし、そればかりを気にしているのも馬鹿らしいことだ。動画の再生の途中で一時停止をして変顔になっていると笑ってみているようなものだ。誰しもがそうだし、うまくやればあなたもそうなる。ありのまま、そのままでいいといういいは良いではないんだよ。