マヤカシの多様性

日々

異質

あなたの周りにはあなたとは違うものばかりで溢れている。考えてみれば当たり前だけれども、こと人間関係になればトラブルばかりとなってしまうね。そもそもはあなたと違うからこそ、あなたが際立つわけでそうでなければあなたがいるかどうかを確かめるのも難しくなる。だからそもそも異質なものに囲まれていること自体があなたを支える原動力であり、そこにはあなたを出現させてくれているすべてがあるわけだ。ということは、今日言い争ったライバルでさえ、あなたのためにそこに存在してくれていたということに気がつくだろう。どいつもこいつも人の気持ちも知らないで、なんて憤慨しているあなたがそこにいられるのも、あなた以外はすべて異質だから成り立つわけだね。そういう視点から気に入らない人やものたちを俯瞰してみると、すべてはあなたを引き立ててくれるために嫌な役を演じてくれていることに感謝しかなくなるわけだ。

多様性の罠

昨今は多様性が尊重されるべきだという議論が多いね。それはある意味当たり前で、あなた以外のすべては異質であるからこそ、あなたの個性が際立たせてくれている。まるであなたを照らしてくれているスポットライトのようにね。しかしなぜか最近はことさら多様性を重視しろという言説が巷を席巻している。これはなんか怪しいなと思っているのならそれはおそらく直感的に何かを感じているからだろう。多様性を尊重なんてしなくても、そもそも多様性のスペクトラムの中がこの世だとしたら、あえてそれを強調するのは、逆のことをしようとしているに違いないね。そもそもあなたと同じものであなたの周りを固めたとしたら、あなたはその中で溶けてなくなるように、少しずつ違うものであり、森の木々や葉っぱのように似ているようで同じものを探したとしても一つもないのが普通だね。それをあえて多様性なんていう概念で、おそらくは何かを押し付けようとしているね。

平等

平等というありもしない概念を上手に駆使して、誰もが反論しにくい前提条件を備えている。そうして、もちろんそのことで蔑んだり、見下したりしてはならないという論理展開は一見普遍的な正しさのように振る舞う。けれどもそれは思考の罠であり、そもそもそんなものが当たり前の世の中において、あえてそこに力点を置き視点をそこにわざわざ集めていることが怪しいね。多様性を担保するためになにかの新たな区分を生み出しているのなら、それは明らかに本末転倒だ。それらはあえて稚拙な分類用語を用いなければならないものではない。葉っぱの傾向を揃えて分類したところで、自然の葉っぱを差別しないとか言っている滑稽なことに過ぎない。なんとなくそういう言説を改めてする裏の意図に気がついているだろう。あなたの自然な状態をなんらかの力を加えて支配構造へと変えようとしていることをね。多様性とか異質とかそんなものはあなたがいるからこそのものだ。それ自体は特別扱いではなくそもそもそうであるからこそあなたがそこにいるわけだからね。