操られ人形

日々

叱る

ついつい大きな声で叱りつけたとき、あなたはそれはどこかでできれば避けたいことだったと思っているだろう。でもやむを得ずそうしてしまったんだ、それは緊急事態だから仕方がないと自ら葛藤しているはずだ。ところが叱ることに慣れてくると、そういった逡巡は大きく省略されて、もはや条件反射のようにいつでもどこでも叱り続けることができるようになる。幼子を育てている母親は知らず知らずのうちに、小言マシン化して、早くしなさい、きちんとやりなさい、という言葉を一日に数え切れないほど発することになる。そうやって我が子を少しでも母の理想に近づけるようにしてしまう。それでもうまくいかない場合に、もう知らない、なら勝手にしなさい、という最終宣告を与え続けている。これは大いに矛盾した行動だとも気がつかないままにそうやって日々奮闘しているわけだ。さて、ある意味どこにでもある日常の風景だけれども、ここに一体何が潜んでいるかわかるだろうか。

褒める

褒めて伸ばすなんていう学校や塾がある。叱りつけてやらせるよりも、褒めて上げるほうが成果として大きく出るという理屈だ。けれども結局のところ叱るも褒めるも表面的な違いだけで、本質的には強制力でもってコントロールしようとしていることに気がつくだろうか。叱るのは一時的な恐怖と、あなたのためを思ってという愛情の演出があり、褒めるのは、評価者であるあなたに気に入ってもらえたご褒美としてのそれだ。すなわち恐怖政治でありながらも、支配者が表向き怖い顔をして睨み続けているのか、笑顔ですり寄って一見優しそうに見えるけれども、本人ではなく他人の評価がすべてだと植え付けている。どちらも自己決定や自己肯定を徹底的に破壊するものであって、いわばどちらも褒められたものではないね。教育や普段の人間関係を構築し、維持していく力は、結局のところそうやって日常から上手に破壊されているわけだ。

自己実現

あなたなんていない、あなたなんて幻想だというスピリチュアル的な表現を誤解して、自己中やワガママは愚かなことだと決めつけてしまう人がいる。けれどもそれは根本的に論理的思考を誤っているわけだ。あなたという幻影であったとしても、だからといって蔑ろにしても何も起こらないわけだ。だからあなたと思い込んでいるものを手放す術を身につけるというか、そういうメタ認知ができる視点を見つけなさいということであるわけだ。逆に言えばあなたはいないというのは厳然たる事実であって、なぜならばあなたと思っているほとんどが、そうやってあなた以外のなにかから押し付けられた価値観だったり、褒められたいがためにやった成功体験や快感でできているからだね。あなたがゼロから生み出したなにかはほとんどなにもないという意味であって、あなたが空っぽなままだと、その時々の状況によってうまくコントロールされてしまっているだけになることへの警告だ。あなたが今素敵だとかやりたいなにかは、本当にあなたの気持ちなのかというチェックができたほうがいいのはそういうわけだよ。