正しさの押し売り

日々

琴線にふれる

この言葉は心が大きく揺れる本来の意味から、同じような使われ方で怒りを買ってしまうこととして使われているらしい。おそらく逆鱗に触れるという言葉との混用でそうなったのだろう。しかしおかしな話で、お琴に張ってある弦と、怒り狂った龍を混同するとはね。でもそうやって多くの人が本来の意味合いと違った使い方をしてしまえば、いつの間にかそれが通念上正しいと言わざるを得なくなる。それが言葉の変化だね。ある意味誤用だといって言い張ったとしても、時代の流れに押し潰されてしまうだけだ。そうやって正しさも含めて、変化していくのが自然でありその上で成り立っているのが社会であり世の中だね。自らが正しいと信じて疑わない姿勢は、時には大切だけれども、ずっとそうであるかという保証はどこにもないわけだ。首尾一貫ブレることのない姿勢は、リーダーシップに必要なものとされているけれども、時には柔軟に対応できるフレキシビリティも必須だということも知っているはずだね。

信仰

ちょっと言いにくい話なんだけれども、絶対的な神もその例外ではない。なぜなら、絶対神や一神教はその変化に対応してきた部分とそうでない部分があるからだ。本質は変わってないと思っているかもしれないけれども、そもそも神が唯一無二の存在だとすること自体にかなり無理があるわけだ。なぜならば神は実在の人間ではなく、まさに神であるということから唯一無二でないと成立しないという世界観は、自ら所属する小さなコミュニティであれば大丈夫だろうけれども、それを世界に拡大しようとしたときに悲しい歴史がそこにある。神の正義の名の下に多くの血塗られたおぞましい史実を知っている。そもそも人類がその神のしもべなのか使者なのか選ばれし者なのかという思考そのものが、他者の存在に対して徹底的に攻撃する要素がそこに含まれてしまっているからだ。そんなものはないという思想のほうが支配や独占という行為を生み出すことはない。よっぽどマシなのはそんな事も知らず、日々近所の畑の様子を見つめてぼーっとしている人たちだね。

みんな

みんなというのは誰を指すのかということが明らかにしていく必要がある。身近な例は、みんな仲良く、みんな楽しく過ごせるように配慮しましょうというようなことだね。ここのみんなはおそらくは数百人レベルを想定はしていない。せいぜいご近所の友達を含めて数十人ぐらいの規模だろう。それ以上になるとあなたの思考の中のみんなはもはや知らない人が多くなってしまうからだね。そこで哲学や教養を深めることで、そもそもごく少数の身近な人から構成されている世界観をさらに拡大することができる。これが信仰であり、そのための啓蒙活動であり、教育でもあったわけだ。世界を広げるということはみんなの範囲を拡大することにほかならない。みんなの幸せを願っていますと言いながら、顔も名前を知らない人を思い浮かべることはできない。それを全く知らない人がどこかにいて、その人たちもきっとそれぞれ幸せであってほしいと思えるかどうかが教養だね。ところがその教養も疑わしいのは、その上でもおそらくはあなたが幸せだと思っていることを同じように押し付けることぐらいしかできない限界がそこにあるね。本当は悪魔を広げることが彼らにとって幸せだとしたら、あなたのその願いは迷惑極まりないものとなってしまうわけだ。