自然に抗う

日々

波風

自然の猛威はとてつもなく大きい。だからあなたが一人抵抗してもどうしようもないね。そもそもそれを知っているから命を守るために避難するのが先決だ。まさか一人大自然の猛威に立ちはだかろうとは思わないだろう。ところが一方で、ふだんの人間関係においてはどうだろう。人間関係も自然現象と何も変わらないというのに、人の心は変えられるとばかりに叱咤激励をしたりする。はじめからそんなのは無理なことなんだ。でもその自覚がまるでないのは不思議なことだね。他人の気持ちなんてどう考えてもわかるはずがないというにもかかわらず、それはできると何故か思い込んでいる。で結局のところ影響すら及ばないことを嘆き悲しんでいたり、下手すれば怒りをそこに感じたりする。どうして風が吹いたり雨が降るのだ、と言っているようなものだね。でも本人はまるでその自覚すらないことが多いね。

支配下

自然はコントロールできるものだという認識はおそらくは西洋文化の方が強いだろう。宮廷の庭を一つ見ても、西欧のそれは全てに人の手が入っている。一方で日本庭園の特徴は、手つかずの自然をいかに部分部分に残して、まるで手つかずの状態かのような調和を好むわけだ。どちらも手が入っているのは事実だけれども、手つかずの部分があるかのように余白を重んじるのが東洋風で、すべてが四角四面にきちんと整理されているのが西洋風だ。自然は人が手を入れることで人にとって美しく作り変えるべきだという主張が強いとも言えるね。そこに自然と対峙してきた歴史と文化の違いがそこに読み取ることが可能だ。神が創りたもうた世界なのか、萬の神がそこかしこに宿っている世界なのかによって、これほどまでに世界観が変わるわけだ。もちろん、おそらくは見えている景色は、西洋も東洋も同じだろう。それにどう手をいれると美しいと感じるかどうかの視点だけが違うのだろう。

放任

日本においての里山に代表される故郷の風景は、原風景では決して無いね。人が自然に少なからず手を入れ続けた結果の風景だ。それなのに、それを原風景だとみなしてしまうのは根本に自然は手つかずである方が美しいと思っている潜在的な意識がそこにあるわけだ。少なくとも西欧の区画整理された自然とは全く違うものとなる。里山は集落で生きるために最低限の手を加え、最高の結実を追求した結果の姿とも言える。そこにこの国の原点がある。いずれにせよ、自然と調和し共に生きているという意識潮流がそこに感じられるから、近年諸外国からも注目されているのだろうね。支配か被支配かという二元論ではなく、お互いに寄り添ってその恵みを享受し感謝するという根本思想がそこにある。おたがいさまとか、おかげさまといった言葉に代表されるように、自然に対する畏怖と敬意がそこにずっと横たわっている。人との関係もそれがベースとなって構築されていることが読み取れるだろう。全く自己責任などとは相容れない思想が連綿とあったわけだ。