ずっと変わらないもの
好き勝手
他人はいつも好き勝手だね。あなたの思い通りになんてどうやってもならない。他人を変えようと必死に何かをやったところでそれらはすべて骨折り損になる。この世の状況をあなたの都合の良いようにしようとすること自体がおかしなことなんだけれども、あなたはそれに気がつくこともなく、もはや打つ手なしとなってあとは神様仏様に祈るぐらいしかできないね。カスハラとかクレーマーだとかが顕在化したのも、もはや自らでは何もできず、文句を言うことぐらいしか残されていない状況だからだ。お金を払っているにもかかわらず、あなたの思い通りにはならないことに苛立ち、その矛先を何ら関係のない従業員の役割をしている同士にぶつけている。彼も人であり、あなたと同じ悩みを抱えつつたまたまそこでその役割を演じているだけだというのに、あなたにとっての憎き敵とみなしている。逆に言えばあなたもその可能性が大いにあるというのに、もしくは仕事上でそんな思いをしているから故に、ストレスのはけ口として格好のターゲットにしているのなら、それこそ因果応報ということだね。
自己中
自分だけ良ければいいという考えは、かつては利己的遺伝子なんていう説があってそれ自体は生き残りの本能のように語られることがあった。現代では似たような風潮なのが自己責任論だね。すべては好き勝手にやる権利を行使するのであれば、その責任も当人がすべて引き受けるべきだという考え方がまかり通っている。ところが、好き勝手にするところを、少しの配慮や慈悲によって一歩手前に身を引くこともできるはずだ。したがって奪い合えば足りなくなって、譲り合えば余るということが起こる。かつての狩猟採集生活において、命がけで捕らえた獲物をまさか独り占めしようなんていう考えすらなく、さらにはすべてを引き受けるなんて不可能だった。今では切り刻んで冷凍庫で保管することが可能になったけれども、当時は必要な分なんてたかがしれていた。そのおこぼれを多くの動物をはじめとする生き物が享受し、生命の循環がつながっていった。すべてが大きな輪となっていたわけだね。
大きな輪
そうやって循環の輪の中でなんとかやりくりして命を永らえていたわけだ。ところが現代社会では独り占めしようと思えばできる手段が豊富にある。それなのにそれをしないのはその人が愚かでおかしいという結論になる。そうやって生命の循環の輪をことごとく破壊して、少なくとも人類は孤立する方向で進化していった。今では外見上は一人で暮らすことができている。誰とも交わらず、争いもせず、わずかなお金さえあれば食べ物が24時間手に入る。もちろんそこで働いている従業員や商品を運んでいる物流の人々のおかげではあるのだから、厳密にはあなた一人で生きたことはこれまで一度もないね。けれどもそこは見えなくしているから大抵の人は勘違いし始めている。技術が発達して食料が保管できるようになったとはいえ、実は狩猟採集社会で誰かがやっていたことをきちんとどこかの誰かが現代でもやり続けているのは間違いない。そこまでの洞察力と感謝があれば、皆が好き勝手して一人で孤独に生きているなんていう感覚は、歪んだメガネを通して見ているようなものなんだよ。