風見鶏
誠実さ
あなたはできれば真面目に誠実に生きていきたいと思っているね。そのこと自体はとても素晴らしいことで、できればそうなればいいと応援してくれている人も周りにたくさんいるだろう。その一方であなたが思わず顔をしかめてしまうような適当で、誠実ではない生き方を見かけることがあるだろう。その人を見てあなたは許しがたい思いをついつい持ってしまうね。だってあなたはそのためにいろんなことを犠牲にして、我慢して、時には泣きながらでもそれを守ってきたからだ。ところがよくよく見てみると、そんな不真面目な許しがたいと思っている人が人気が圧倒的にあったりもする。あなたはそれを歯がゆい思いで見ているからこそ、恨みつらみも激しくなってしまうわけだ。真面目さだけが正しいことだと思っていると、そうやって他人に対する評価も自然と厳しくなってしまう。あなたがもしなんらかのリーダーだったり指導する立場であったなら、そんな人を非難したり排除したりしようとするだろう。でもあなたもその人も問題なくこれまで生きていることに注目してみよう。
適度
そう、あなたの真面目さも誰かの不真面目さも同じぐらいの魅力がある。あなたの真面目さに惹かれて人は集まってくるだろうし、不真面目な人にもなぜか多くの人が集まっていたりする。そう、あなたが思う価値とは多様性がありあなた以外の人であってもそれは変わらないわけだ。すなわち、どうであっても魅力はあるわけで、あなたが信じている価値だけで世の中が規定されているわけではないね。適当で生きている人でも、その裏側には悩みはあるだろう。あなたからすればそんなことぐらいでと思うことだろうけれども、当人にとっては大真面目に悩んでいるだろう。そういう多様性は自然の中に内包されているからこそ、個性が生まれ色んな人がいるからこそあなたの真面目さも際立つわけだ。そういう意味では持ちつ持たれつの関係性がそこにある。だからあなたが真面目さを売りにできるのも、不真面目なその人がいてくれるからこそのものであるのは間違いのない事実だ。
批判
現代ではSNSが発達して、誰かの不真面目さを叩くことが正義だと勘違いしている人が多い。それには先に述べた理由によるものだ。あなたはこれほどまでに苦労をして真面目さを保ち続けているというのにもかかわらず、その人はあなたの大切にしていたものを踏みにじったと感じている。だから、正義の味方のあなたはそれを徹底的に糾弾して、排除するのが正義だと勘違いしている。それは全く持ってあなたの独りよがりであることは明白だね。それは正義でもなんでもなく、単なる嫉妬に狂った見るに耐えない暗黒のあなたがそこにいるだけだ。正義は悪があるから成り立つわけだからね。その両極端にふれることで、あなたはいつまでも極端なる正義の使者を演じ続けなければならなくなる。それは自ら追い込んでしまっているだけで、その後の人生はとても苦しいものとなるのは仕方がない。そうではなく、清濁併せ呑むという言葉の通り、あなたは時には不真面目に生きることを楽しむべきだし、それを厭わないことがバランスを保つ上でとても大切なんだ。しかも短期間で価値観が変化する現代社会においては一つのものに固執する生き方よりも、ある意味いい加減でコロコロ変わることができる柔軟さを持った方が幸せに生きられるだろう。風の吹くまま気の向くまま、それでいいのだよ。