カゴの中か外か

日々

枠組み

あなたの希望も悩みも全ては枠組みの中にある。それはあなたの思う人生であったり生活であったりするわけだ。その枠組みの中で生まれる一手であってそれ以上でもそれ以下でもない。野球というスポーツにはルールがあって、ホームランを打てば得点が入るわけで、空振り三振すればアウトになる。ただそれだけの意味でしかないことに注意しよう。人生においてあなたの思う成功がまずあって、それと比較しての失敗があるだけで、そもそも人生という定義やルールが変われば、その結果も大きく変わるわけだね。さらに言えば、その人生における成功もあなた自身が生み出したなにかではなく、どこかで誰かから聞いた話にのっかっているだけだね。それを絶対視するあまりにとても辛い日々を送っているかもしれない。でもそれは決して絶対的な真実がそこにあるわけではない。あなたがそう思っているだけのことで、その枠組みを組み替えることができるのならば、いつでも変えられることなんだ。

意思

ルールがあるから意思が生まれる。制限されたルールの中で、あなたは思考を巡らせて次の一手を考えられるわけで、もしそのルール自体が曖昧であったら、次の一手は打てないことになる。将棋でも囲碁でも勝手気ままに動かすことができないから、その中でベストな戦略を立てられるわけだ。そういった意味では攻略法を考えているという表現よりは、考えさせられているということになる。そもそもあなたが考えている人生というルールは、あなたが断片的にどこからから聞いた話や、周りからの期待で出来上がっているだけで、その正体も明確でもなくぼんやりしたものでしかないね。なんとなく色んな人を喜ばせるような人生でありたいとか、豊かで余裕のある生活を送りたいとか、やりたいことがほぼほぼやれる人生にしたいとか、せいぜいそんなところだ。それは気づきや目覚めによって大きく変わると言われたところで、あなたがその制約の中での打ち手だけを考えさせられているだけで全くもって何も目覚めることはないわけだ。

希望

よって夢や希望もその範疇の中でしかない。だから、仮にそれが叶おうとそうでなかろうとも全く持って何も失ってはいないし変わってもいない。だからあまりにもそういう類の知恵を身に着けようとも、いつまでたっても枠組みがあってのこそだ。仮にあなたの人生とやらが明日終わるとすれば、それらはすべてどうでもいい話となる。もっといえばどれほど夢や希望が大きかろうが、それがどうにかなるとかならないとかも馬鹿らしい議論だね。仮にあなたがそれらを上手に操ることができて、夢にまでみた生活を送っていたとしても、それは人生が続く限りのことでありそこを離れてはなんの意味もなくなってしまう。こうしたら今すぐ幸せになれますよ、なんていう誘い文句に惑わされるのもそういう仕組みであって、あなたが将棋や野球に興味すらなければそれらを学んで最強の一手を知りたいとは思わないだろう。そういう意味では夢や希望を持つことで楽しむことができるなら良いスパイスとして機能するだろうけれども、それが叶わないとずっと不満だということであれば、あまりにそのルールや枠組みに縛られ過ぎているということになるね。